2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2021.7.19

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2021.7.19

朝から一色海岸を散歩。ビーチ沿いを毎日犬を連れて散歩できるような日々が来ればいいねと聖子ちゃんと話す。
ホテルに戻り朝食を食べる。自家製パンを売りにした朝食なのであるが、実際のところ普通である。ただ、何よりもホテルで朝食が食べられるということほど快適なことはないと思った。部屋から1分も歩けばそこには朝食が用意されている。そんな快適で贅沢なことはなかなかない。
チェックアウトを済ませて、ビーチへ。今日はひたすら、飛び込んで泳いで浮いて、ビーチで日を浴びて、暑くなったらまた飛び込んで泳いで浮いての繰り返し。これが最高なのである。養老孟司『バカの壁』を読み進める。ビーチで読む本ではないかもしれないが非常に面白い。
去年の夏はなかった海の家も今年はあって、Blue Moonで昼食をとり、夕日を見てビーチを去る。夜は、2日連続でコマチーナへ。すると、前日と同じ3人で働いており、驚いた顔で迎え入れてもらう。ここでなぜか急に古い友人だったかのような雰囲気になるのだが、いや、なったという方が良いのかもしれない。彼らの持つ人間力がそうさせただけで、そうはならないお店も存在する。きっと、彼らがきちんと人間を相手に仕事をしているからで、僕が最近お店に行ってもつまらないなと思う理由は、人間を相手とした接客がなくなったと感じるからなのだろう。特にそれを求めてない人もいるのだけれど、同じ共同体としてはその数えるほどの会話数くらい楽しんだ方が良いとは思う。反応に困るようなことを言ってくる人もいるのは事実なので、なかなか難しい時もあるけれど、人と人との関係性においては、人間を意識した振る舞いがあるべきではないだろうか。嫌なこともたくさんあるだろうけれど、そのくらいの方が楽しいと思う。

個性を大切にすることが重視される世の中で、本当に個性的に生きようとすると村から外れるのである。この国には、(世界各国少なからずそうだろうが、)ムラが多すぎる。ムラ内で経済が周り、文化が回っている感覚さえある。ある人がそれを良しとするとコバンザメのような人々が群がる。ムラにおける見ていてなんとか心苦しい光景である。文化や芸術はもっと風通しの良いものであって欲しいと切に願う。

実際は、beingコバンザメというのは、自分たちが他者から見て個性的でいるための手段であり、そこには個性的な人といると個性的であれるという勘違いが存在し、ある種の個性的な酋長を中心に、それを支える個性的という衣を纏った保守が多数存在する。

村の中で生きていくためには正しいポディショニングと保守的な思考が必要であって、個性的でいるとこの対岸を歩いているのではと思ってしまう。

保守が決して悪いわけではないし、同時に保守であるからこそ伝統も存在するようにも思える。ぼくの意味合いでの保守という言葉が読者にとって正しい認識になるのかは微妙なところでもある。個性が溢れ出すと伝統などは存在することができなくなってしまうのではないかとBlue Moonで鎌倉、逗子、葉山を拠点にしている女性たちを見ていてそう思った。決して皮肉でも否定でもない。単純に感想そのままである。