2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2021.2.19

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2021.2.19

学生時代のコンプレックスからか、大人になってからある女の子に心が揺れたことがある。学生時代にコンプレックスがあったとは思えないが、自分の経験しなかかった学生生活が存在することを認識しているというべきか。遊べなかった、カラオケに行ったり、普通の生活をしたかった学生時代、そんな普通の生活が出来なかったから、普通に生きることが出来なくなってしまったのか。そんな普通の生活に憧れていたとはいうものの嫌悪感を持っていたのも事実である。
彼女がいて、学校終わりに制服で遊んだり、公園でウダウダしたり、そんなことにぼくは本当に憧れを抱いている、もしくは抱いていたのだろうか。いや自分の経験した男子校の学生生活の方が面白かったのは間違いない。
ただ、そんなことをきっと楽しく過ごしていたのだろうと思うと、なんだか心が騒ぐし、涙が出てくる。自分がこの先も一生経験することが出来ないもの、若さと安易さ、無心の楽しさ、そんな経験を持ち合わせている人に心が揺れてしまったのかもしれない。
冷静になると自分は別に人に対して心が揺れたのではなく、そんな風な絵に書いたような学生生活を経験をしてこなかった、経験した人の経験に対して心が揺れていただけなのだ。

在宅勤務で、一日中家から出てなかったので、夜散歩する。今日はほとんど電話などせず話さずに黙々と作業をしていたので、外に出た瞬間ドキッした。人は何をもって生きていると実感するのだろうか、人は何を対峙した時に自分の生を感じるのだろうか。
遮断された部屋の空気と、街の空気の違いでさえ自分の意識がどこかこの世界とは違うところにあったと感じてしまうのだから、それは不思議なものである。
二子玉川まで歩いて夜の多摩川を見る。久しぶりに抜けているところで空を見たような気分であった。二子玉川の河川敷から対岸を見ていると、東京の端を感じた。それが川崎市のもつ光や色のトーンなのか、景観つくりなのか、建物の密集度なのか、単純にそれらがもたらす空気なのか。一緒に歩いていた友人とサクッとお茶でもしたいねと話していたが緊急事態下ではそんな場所はあるはずもなく、唯一開いていたスーパーマーケットで温かい飲み物を買う。
人の気配を感じない街を歩いて、川沿いを歩いて、また街を歩いて、エドワードホッパーのNightwarksやゴッホの夜のカフェテラスのような暖かい光の漏れているカフェがでてこれば、ぼくらの生活は幾分豊かになりそうだなと感じる。
日を跨いだ頃に帰宅。久しぶりにぐっすり眠る。