2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2021.2.20

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2021.2.20

午前中にむすびガーデンで食材を調達。
先週、ヴィンテージのArne Jacobsenのサラダボウルを買ったので、サラダを食べることに気が行くようになっている。先週と書いたのは、ここに記録していなかったのでいつだったかをすっかり忘れてしまったからである。ここでも、きちんと記録しなかったせいで一つの物語が失われている。Felixの実家で、Karenさんがサラダをこのボウルでサーブしてくれたことがなんとなく頭から離れず、見つけて買ってしまった。
そのことを彼女に伝えると、18歳の時にコペンハーゲンで両親にプレゼントとして買ったんだけど、数年前に母親からもう使わないからと帰ってきたのだそうだ。彼女はもう63歳らしいので、あのボウルは45年も使われていることになる。ぼくの45年後はこのボウルは使われるだろうか。
近くのパン屋でパンを買う。もっと美味しかったらいいのにといつも思う。朝にクロワッサンを食べるというリズムだけのために買うクロワッサンと言ったようなもの。
非常に良い天気で、今日は20℃まで上がるということなので、buikでランチして、新国立美術館でも行こうかなと思っていたが、
結局、家から出ず。昨晩twin peaksのシーズン3を見始めたせいか、眠い。
土曜日が休みだと本当に出不精になる、東京という街の価値とはなんだろうか。土曜日の人の多さか、それとも展覧会の数か、大きなアーティストの来る街。オンラインでは感じ取れないことや出来ないことがここにはあるということか。
昼過ぎ、会社の先輩渡邉さんがお茶しにくる。近くのケーキ屋でシュークリームを買う。うだうだと話して、ひたすらお茶を飲んで、散歩して、ゴミを漁って宝探しをして、帰宅。
夜は、サラダを食べる。Cairo Apartmentのリリースをブラッシュアップする。来週には完成するので、数週間でお披露目である。ここからが大切。
毎日読み、書き直しているとすこしずつではあるが言葉に重みが出てきたのかなと思う。
難しいことを考えていても、それをいかに楽しく簡単に感じられるか、難しいことを難しいまま伝えるようなことはぼくはしなくてもいいかなと思っている。
単純に心が揺さぶられるものが作りたい。
21時ごろからお風呂でサッカーを観て、Twin Peaks シーズン3を観て寝る。
南野がゴールを決めた。リバプールからサウサンプトンに移籍して、3試合で2ゴール。もがくことの価値と、場所の重要性を見せられているようである。その人やもののもつ才能の輝く場所というものは必ずある。
みんなが共有している不安や苦しみの中で、一人の人がもがきながら一つの答えを出す、その時の表情はきっとその人本人だけのものではなく、みんなが共有出来るものなのではないだろうか。南野がゴール決めた後の表情には少し涙してしまった。きっとまだ仲良くないだろうチームメイトたちの中で、一人で喜びを少し見せているようであった。
サッカー選手だろうが、アーティストだろうが、社長だろうが、同じように一人で家に篭って時間を過ごすことが強いられる今唯一の共有感覚というものはその不安なり、苦しみなのである。苦しみの中で感覚を共有しているからこの時代に共感というものが生まれる。苦しみののちには光と結果がある。
こうやって言葉を紡ぐことを再開できたことの一つに、ぼくの生きている価値とは何か、生はどこに存在するのか、と考えているうちに日々の営みを記録しないことには生きていることの証明が出来ないのではないかと再度思わされているのである。
ぼくが日々言葉を記録していた本当の意図は、まさにそれで自分が自分の生を全うしているのか、生きている価値を見出さないことには生という火を繋いでおくことが出来ない気がしたからである。
そうやって言葉を絞り出すように記録しているが、日々の鍛錬が足りないので、思考を書き出す作業をしていないので、考える能力が低下しているようにも感じる。
考える能力が低下するということは、物事を感じ取る力も弱くなるということだろう。