2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2020.5.7

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2020.5.7

昨晩夜更かししたので、と言っても23時半くらいであるが、朝は起きられず。7時に起床。顔を洗い、ジーンズを履き、ヤクルトスワローズのキャップを被り、散歩に出る。もちろん砧公園である。なんだか、少し怠さが残るので、野球少年たちを横目に公園を突っ切る。人のいるところにはいかないようにする。いつものスポットで、立ち止まり、木々を眺める。昨晩の大嵐のおかげで驚くような快晴である。水たまりはたくさん残っているが、ぼくからするとそれがまたいい。反射する風景や、光、風で靡く水面。それらを見ながら鳥の声を聞いているとなんだか、ここは東京ではなく感じるし、そこに安心を覚えるのである。ぼくは基本的に都市が大好きだし、都会的なものへの憧れもある。だけれど、やはり心はこういう風に緑や、自然の風景の断片を求めているのだろうか。自分はなぜ東京にいるのか、いる必要があるのかと不思議な気分にもなる時がある。東京でしか出来ない生活をしているのだろうか。長く居れる場所ではないのかもしれない。都会的な場所ではあるが、街の構造が違う都市へ行かない理由はなんだろうか。東京に住んでいるのだから、東京らしい、東京でしか出来ないことをするべきだ。東京に住みながら、田舎暮らしのような生活に憧れているようでは意味を感じない。ぼくは田舎暮らしなんてまだしたいとは思えないけれど。とか東京での暮らしを考えながら歩いて、いつもの木に抱きつく。今日も快調らしい。青空と新緑のコントラストが美しい。起きた時間も遅いので、あまり朝一番の気持ち良さは感じられないのであるが、それでもまだまだ朝の光が残っている。朝一はなんで気持ちいいのかというと、単純に空気の問題なのではないかと思うほどである。人が動き出す前にその日の新しい空気を吸うこと。朝の太陽の光をたくさん浴びた空気をたくさん吸い込む。それが気持ちいいのだと思う。家に帰り、豆乳のバナナジュースを飲み、ルイボスミルクティーをいれる。この朝食はあまり好きではない、ミルクと豆乳。なんだかモッタリした朝になってしまう気がしている。日記を書こうとするが、なんだか集中力がなく全く文章を書けないので、諦める。8時半から仕事を始める。昼食は、トマトがあったのでガーリックとオリーブオイルで、フレッシュトマトを炒めてパルメザンをする。フレッシュトマトのパスタを食べる。まさにそんな陽気である。青空が広がっている。ラジオからも昨晩のカミナリは驚くほどだったと話している。本当に昨晩のカミナリは2012年12月21日にバイロンベイで、みたカミナリを思い出すようだった。あのカミナリももう世界の終わりのようなカミナリだった。ぼくは、宿もなく、家もなく、野宿しようとしていた雨は降らずにカミナリの稲妻だけが海に落ちる光景はなかなか忘れられないだろう。そのあと、バス停で寝ていたら靴を盗まれ、素足で街を歩いた。なぜそんなにはっきりとした日にちを覚えているのかと不思議になるだろうが、そのあとビーチに行くと、世界が終わらなかったと喜ぶ人々、巨大なスピーカーとターンテーブルでDJが音楽を鳴らし裸で踊る男女がいたのだ。どういうことだと思いながら、ぼくも踊りに参加した。話を聞くと、2012年世界滅亡説というのがあり、ノストラダムスの大予言に続く終末論として採り上げられていたものらしい。マヤ文明で用いられた暦の一つの大きな暦が終わる日だったのだ。そんな日の前日に地球が割れてしまうんではないかと思わされるような稲妻をみて、自分の荷物が盗まれ、裸足でビーチに行くと、全裸でダンスをしている人たちがいたのである。ぼくは何も信じない。信じるものはその目の前で起きている事実だけと思わされたっけ。とにかく涙を流しながら踊り続けた。それがぼくのバイロンベイでの野宿最終日であった。シドニーに移動し、数日後には聖子ちゃんと合流するのだ。なんだか最高の日々だったと今でも思える。稲妻をみていると、世界をキレイにしているように思えるのだ。youtubeでDIIVのドキュメンタリーを鑑賞。チームで何かを作ること、信頼関係、ミスを受け入れてくれる友人、後悔していることに対してそれを無視せずに立ち向かえるか、などなんだか素晴らしいドキュメンタリーだなと思った。正直、ミラノでライブに行けなかったことを後悔している。ライブに行けなかったというか、ドラッグで強制帰国。その後、身を潜めていたが、数年後にまた活動再開する。ビジュアルがなんだか、変わったなと思っていたが、音楽性は相変わらず。すごくいいバンドである。このドキュメンタリーにも彼ららしさが表れている。彼らは唯一無二な印象がある。夕方、なんだか気分が乗らず、落ち込んでいるので、マーク・トウェイン『ハックルベリーフィンの冒険』を読み進める。物語は、同じ場所にいてもその空気を変えてくれる。小さいスペースで、生活と仕事をしている人、数人で住まなければいけない人、気分の切り替えが難しい人にはもってこいだと思う。最近、写真ではなく、文章による物語を作りたいと思うようになっている。いつもこの二つがぼくの中で事あるごとに持ち上がってくるのである。文章を書くことと写真を撮ること。ぼくにとってこの二つに共通しているのは、物語を紡ぐこと、風景を感じさせるという点のみである。なかなかきちんと発表していないので、発表出来る度胸が必要だ。日記を毎日書いていても、だいたい50人くらいの人が見ていてくれているのだが、(先日は驚くことに120人!)それも嬉しいことなのだ。度胸がないのか、ただめんどくさがりなのか。もし、これがめんどぐさがりだとすると、ぼくはなんのために生きているのか不明である。自分のしたいことを面倒だと思うのであれば、それはしたいことではないか、自分の人生というものを生きていないということになる。とにかく精神力が足りない。古田がどのようにプロ野球選手になったのかという動画を見たが、(今日は、なぜかこういう啓蒙的な動画を立て続けに観た。)彼も苦労人であるし、目標の立て方が明確だったので、ハッとさせられる。ぼくは、明らかに目標立てが下手なので、なかなか進められないのである。いつになっても同じようなことを延々と言っているのだ。『ハックルベリーフィンの冒険』を読んでいるとめまいがしてきた。全然話が頭に入ってこない、だいたい夕方になるとこうなってしまうのだ。鉄分不足かなと思うこともあるが、精神的な不安が多い気がしている。思い立ち、目標と自分の理想像を書き出してみる。とにかく思いつくままにどんどん書き出す。夜は、ジャガイモとリークのスープを食らう。余っていたパンでクルトンを作る。明日は、9日ぶりの買い出しの日なので、ビーフカレーでも仕込むつもりである。また牛スジを煮込むつもりだ。最近、日本風のカレーが食べたいとよく思う。日をまたいで就寝。久しぶりに24時までに寝なかった。明日は、たくさん太陽に浴びよう。