2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2020.5.4

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2020.5.4

4時に目を覚ます。再び寝て、6時ごろ目を覚ます。起きるとまた調子が悪いので、落ち込む。水を飲み、顔を洗う。顔を見るとなんだか、目の下に隈ができているようである。心配になる、なんだか顔も青白い気がする、もちろん寝起きだから仕方ないのだろうけれど、心配になる。歯を磨くと気分がかなり良くなることを発見したので、最近、不安に駆られたり、体が熱くな立った時には水を触り、歯を磨くようにしている。そうすると気分が落ち着くのだ。それは新しい発見である。前にもハリーに「水を触ったり、手を洗うと落ち着くよ」と教えてもらったことがある。経験者が実際に実践してきたことはかなり役に立つのである。最近の新しい発見である。今文章を書いているとまたブラインドタッチが出来ないかと試している自分がいる。これだけ文章を書いたり、パソコンを触る作業をしているので、どうしてもスクリーンから目を離さずに仕事が出来るようになりたいと思っている。基本姿勢がズレているようでなかなかキレイにブラインドタッチをすることができない。感覚的に覚えてしまっているようで、imacの小さなキーボードにもまだ対応できていないようにも思う。だけれど、打ち間違えてどこにあるのかすぐにわかるのはすごく自分で文字が進むのを見ていて面白い。どう修正するのか、自分の身体ではないように感じる。ぼくとしては、文字が進むのを見ているような感覚にあるが、実際はこの文字を進めているのは自分なのである。実は人生もそんなところではないか、身体を進めるのと同時に、その場その場での経験をぼくが感じとる。もちろん、身体はぼくの一部であるが(いや、一部ではなく、全部かもしれないが)なんだか感じる部分と進める部分が違う気がしている。感じるのはぼくで、進めるのは身体である。脳や思考はどこに属すのだろうか。だけれど、たまにそのような気になることがある。気付いたら自分が想像していた以上の結果だったり、場所にいたりする。それは、ボジティブなことが多いが、たまに酷く落ち込むこともある。自分が考えていたことを自分の身体で実行できない。身体は色々なものを肌で感じ進んでいる野生的な部分で、思考は自分の人間的な部分なのである。身体は、昨日見たミミズのようにその場所で何を感じ、どう動くかを肌で考える。一方でぼくの脳で思考するのは、そのようなものを踏まえた上で、どのようにしたいか、したくないか、と思考する。そこには不安や、念の為、とか演じる、意地悪するとか、色々人間の良い部分も嫌な部分も含んでいる。どちらで考えるから正しいとはぼくは決められないが、臨機応変にどちらででも考えるようにぼくはいたいと思っている。ミミズのようにリアルタイムを肌で感じ右か左かを選ぶような思考と、人間らしい過去も未来も含んだ思考いや言うなれば煩悩の両方を持ち合わせた人間でいたい。やはり、それらを臨機応変に使い分けのではなく、うまく共存させることはできないだろうか。今日も朝から散歩に行く。雨だけれど、傘をさしていつも通りに進む。流石に今日は、いつもと比べると驚くほどに人がいない。このくらい人がいない公園は素敵だし、雨だと空気も澄んでいるのと、木々の色が変化し、マットになり、色がハッキリする。言葉に出来ないほど美しい。公園でこれまで美しいと思えるとは正直思っていなかった。自分の感覚も研ぎ澄まされてきたか。香りも素晴らしい。木の幹の色も全体にしまりを与える。緑の濃淡も美しいし、グラデーションも、葉の形、木の形も美しい。風があるのと、雨が葉っぱにたまり、木々はいつも以上にずっしりとした大きな動きをするので、なんだか踊っているように見えつい笑ってしまった。木が踊っていたり、歩いていたりするアニメや物語があるが、まさにその光景だと思う。初めて、このような光景を見た。いつもの木にハグをし、ここだけ濡れていないことに気付く。木はすごいな、これだけ雨が降っているにも関わらず、木の下の入ると全く雨に濡れることがない。なんだか包まれるような気分になる。風邪も治りそうだ。家に帰り、手を洗い、口をゆすぎ、朝食にバナナを食べ、ミルクティーを飲み、仕事を始める。今日もE-SHOPの諸々進める。人がやっていることを一緒になって出来ない性格なので、(出来ないのではなくしたくないので結果的に出来ない)何か自分でゲームを作り、それを広める、そんな方法で仕事も考えていきたいと思う。人がまだやっていないことをするのはぼくには快感である。ぼくにとってそれが新しい必要は全く、何かの焼き増しでも、誰かが昔にやったことでもいい、ただ、その時に何が効果的なのか適材適所を考えたり、その時に人々の思考が偏っているからとあえて違う行動すること、(あえてというと語弊があるが、無意識的なのか、軽い強迫観念というか、)閉鎖的になることを避けたいのである。人々の思考や視野を広げることがぼくのするべきことだと思っている。みんなが右だと言っている時に左にこんなものがあるよとバカなふりをして踊ってみせるのも自分ができる事だと思っている。そういう性格なので、どうしても右にいるときに右にたくさん人がくると、違う方向へ進んでしまう。そんなことをしていると友達なんて出来やしないし、仲良くなってもすぐに違う人と仲良くなってしまうのである。ただの気分屋だと言われそうであるが、そういうわけではなくぼくは自分たちの人生やコニュニティやグループ、社会においてした方がいいのではないかと思うことをしているだけなのだ。昼は、昨日の残りのミートボールを食べる。白ごはんとミートボールは美味しい。緩く作りすぎだので、ハンバーグのような柔らかさである。ただそのようがすごく美味しい。雨の日は心地よい。午後を過ぎると少しずつ陽が差してくる。庵野秀明監督『シン・ゴジラ』を鑑賞。ゴジラらしい社会性のある映画、異常なまでに入り組んだ日本の社会システムに突っ込み警笛を鳴らすいい映画だった。上映された2016年に観ていたら また感覚は違ったかもしれない。2011年から、いや大昔からそれは日本という国の根底に雑草の根のようにしぶとく根付いているシステムに対する問いである。いちいち、その煩わしいシステムがぼくたちの生活からリズムを失い、ぼくたちの生活を苦しめているのだという描写多いのが印象的だった。それから、「ゴジラより怖いのは人間ですね」という言葉も印象的だった。アニメが苦手で、庵野監督のアニメはあまり観たことがないのだけれど、庵野らしさ(少しくらいは知っている)が散りばめられている。彼が作るゴジラという大切な要素が詰まった作品であった。もうすでにわかっていることで、共感し満足するのではなく、それをどうするかこの作品を観て考えて個々が行動していかなければいけない。ビディーからシェアしてもらったリンクで期間限定で無料の映画が公開されているので、エリック・ロメール『クレールの膝』を観ようとするが、フランス語で字幕なしなので諦め、北野武監督『菊次郎の夏』を観ようとするも、ストリーミング出来ず。なかなかうまくいかない。夕食は、白米を炊き、お味噌汁を作り、ハラスを焼き、おにぎりを作る。聖子ちゃんから前に作ったハラスおにぎりについて厳しい指摘をもらったので再挑戦。ハラスのおにぎりは、混ぜご飯ではなく、白米の中にほぐしたハラスが入っているものをいうということ。前回は、梅干しとゴマと混ぜて食べた。『プライベート・レッスン』を鑑賞。イタリアンSFかと思ったが、アメリカの映画であった。少年の性の目覚めというテーマらしく性的描写が多いが、なんだかエロいわけではなかった。なんだか、もう一本観るかと思い、『ゴジラ対モスラ』 鑑賞する。自然破壊をテーマにしたぼくの子供の頃すごく好きだった映画の一つ。記憶に強く残っている。劇中でとても印象に残ったシーンがあった。モスラの卵をインドネシアから持ち帰ろうとした大手の建設会社丸友観光の社員安藤が、社長友兼の以来で船でモスラの卵を運んでいるとゴジラが現れる。一緒に乗船し帰っていたトレジャーハンターのタクヤが、船の危険を感じ、船にロープで繋いでいたモスラの卵を船から外そうとロープを解こうとする。しかし、会社員男性は「これは社長命令です」といい、必死に阻止する。しかし、盗人の男性は、「これだから会社員になんて絶対なりたくないんだよ!」と言いながら会社員を殴って突き飛ばす。なんだか自分のルーツがここにあるのかもしれないと思った。こういうのを観て考古学者になりたいと思っていたのかもしれない。職務に忠実なサラリーマンだが、拓也やコスモスとの交流を経て、会社や自分の行為について疑問も抱いていき、最終的に、手段も犠牲も問わずに丸友の利益ばかりを上げようとする友兼と決裂、友兼に「どうせこの会社はつぶれます」と言い残し退職する。大人になってから改めて観てもなんだかこれぞゴジラという内容である。ゴジラとはなんなのだろうか?何かのメタファーか。