かなり体調が悪い。熱があるようだが、おでこを触ると全く温度を感じない。上半身が火照って仕方ない。少し関節も痛むようである。喉の痛みや、咳は全くない。COVID-19の疑いがあるのだろうか。自分でもよくわからないが、とにかく安静にする以外の薬が今のぼくにはなさそうなので、安静にすることにする。ただ、家にいるのは気が萎えるので、朝の散歩だけには出ることにする。6時半頃、散歩に出る。今日はかなり暖かいので、朝から人も出ている。感染の疑いもあるので、マスク着用と人との距離を10mくらい保つことにする。今日もまたいつもの家族はいないようである。少し残念だけれど、そんなものだ。その代わりに新しい家族がいることに気付く。中学生くらいの男の子と熱心に野球の練習に付き合うお父さんと球拾いに徹するお母さん。なかなか上手いように見えるが彼は期待の存在なのだろうか。バッティングの練習から、補給の練習まできちっとワンセットになっているようである。右投げ、左打ち、バッティングもコンパクトに打つのと大振りするのと練習で分けているようである。それから、ボールのサイズが小さくなったり、バットではなく、竹の棒のようなもので打ったり、古風な練習方法だ。なんだか、漫画のような家族である。英才教育か、それとも熱血ど根性教育か。ゲッツーの練習などもしているので、二塁手を彷彿とさせた。二塁手で、あのバッティングだと、ぼくが思い出すのは、日大三高の都築という選手である。2001年の夏だっただろうか、日大三高が優勝した年の一番バッターで、二塁手。ぼくが観に行った試合ではサイクルヒットをしていた。勢いがあり、超強力打線の切り込み体調的な印象があった。結局、中日ドラゴンズに入団し、二軍から一軍に行ったのだろうか。そのあとは、あまりよく知らず。あれだけ活躍していた選手が華やかに活躍できないのがプロ野球なのである、そう考えると相当厳しい世界なのだろう。ぼくは野球をやっていなかったので、どのくらい厳しいものかがさっぱりわからない。都築はもしかすると右打ちだったかもしれない。右打ちの中距離打者、二塁手に憧れを持つことが多い。近江高校の岡くんというのもいた。彼のバッティングもかなり好きだった。高校生の頃、家に帰って夜2時ごろまで、テレビを見ながらパワプロばかりしていたので、高校球児をたくさん作ったものである。ゲームなんてせずに本をたくさん読んだり、音楽をもっと掘っていると今頃もっと知性のある人間になれたかもしれない。今考えると学生というのは忙しいな、チャンネルを右手にゲームをしながらテレビを見ていた。今は、iphone片手に全てiphone上で済ますことができる。youtubeだろうか、instagramだろうか、twitterだろうが、あまり若い世代が何を使っているのかは知らないけれど。チャンネルを片手にする必要もない。リアルタイムという感覚はないかもしれない。リアルタイムと自分の時間の葛藤。話はそれたので、そんな野球の家族の話に戻るが、あまりにも真面目なので、あまり感情移入しない。もう桜の花も散っている。地面に散らばっていた桜の花びらも風に乗ってどこかへ行ってしまった。いつもの木に会う、今日も気持ちよさそうにしている。声をかけ、ハグをする。目を瞑り、心で話しかける。もちろん答えてくれるわけではないが、答えてくれなくてもいい気がしている。太陽の光が、木々の葉の隙間から漏れ、心地よい光をこの木に当てているのである。7時20分くらいが一番いい光の当たり方をしているように思う。神の存在について考える。一人でいると話さない日もあるし、声を出さない日はたくさんある。それでも、仕事で誰かから連絡があったり、5分くらいは話すことがある。自分の声を忘れてしまいそうだし、どう声を出すのかもわからないこともある。それに対しては不安にはならないのだけれど、信じるものの存在は必要だなと思うし、何か基準になるような存在が必要だなと思う。キリストとしう存在は誰にも知られていないのに、あれだけのストーリーがあり、いまだに真実を追求しようとしている。神の存在を信じて、神はこのように言われた、なされたなどということをいって、自分の行動の基本にするのである。なんだか、ある意味不思議ではあるが、人間が必要とするものであることは理解できる。信じるものは、全て神を理由にできるのである。神は自分の行動を全て見てくれているし、自分の中にだけ抱え込むことが苦しいことは人生にたくさん存在する。だからと言って誰にも言いたくないこともある。例えば、自分が絶世の美女で、モデルをしている。撮影中にウンチを漏らしてしまった。それは神にしか言えない、彼にも友人にも家族にも言えない、言いたくないことはある。それは神は知っている。自分の心の声は神が全て知っているのである。ぼくにだって誰にも言いたくないけれど、自分の中だけにとどめておくのが辛いこともある。そんな時はぼくは光や空気に話しかけるのだ。人間は理由が必要だなと思うことがある。木にもたれているとミミズが床を這っている。どこへ行きたいのかも、何をしたいのかも見た目からはさっぱり想像がつかない。ただ唯一言えるのは、一生懸命伸びたり縮んだりしながら進んでいる。右へ行こうか左へ行こうか考えているように見える。ミミズも考えて生きているんだなと思うと、人間はもっと考えられてもいいのではないか。同じように目もあるし、手も足もある。頭があるから車を作りだし、早く移動する手段を見つけた。ミミズのように自分の足で歩かなくても早く目的地に行けるのである。そんなふうに考えていると人間たちが作り出した道具の使い道は正しいだろうか。基本は、ここにある気がしてならない。ミミズのように這っていた人間が文字や言葉を作り、お金を作り、社会があり、国ができ、仕事を生み、家を持ち、生活している。そう考えると、人間の言葉の使い方はどうか、文字は、お金は仕事はどうか、社会や国の存在価値はどうか、仕事は何のためか、家の存在は正しいか、と全てを一から疑うことがある。頭があるから、思考が生まれ、想像し、いろいろなことを生み出す。素晴らしいと思うし、ぼくも人間らしく思考と想像を行動に繋げられるように生きたい。ただ、一方でどうだろうか。思考と想像は行動を邪魔していないだろうか、思考と想像は人間を邪魔していると感じることはないだろうか。人間とはそうだ、自分の想像力で自分の生活を豊かにし、自分の思考によって自分自身を苦しめる。朝からミミズをみながらそう考えた。助けてあげるべきなのかと思ったが、彼らにとって何が正しいのかをぼくは知らない。こうやってゆっくりと進むことが美なのか、その中でアリや蜘蛛、落ち葉、木の実、他の生物たちと出会うことに美を感じているかもしれない。彼らにとっても旅をしながら人と出会うこと、どこに向かっているのかわからない中でいろいろなものを感じ、学ぶことが正しいとされているかもしれない。21世紀におけるミミズの価値観は、何か。それは13世紀に存在したものと違いはあるのだろうか。ミミズとは人間よりも長く生きているのだろうか。そう考えると、人間以上にいろいろなことを肌で感じ、学び、DNAに刻んできているのだ。2020年に生きているぼくがたった31年の自分史の中から絞り出した安易な思考で、ミミズの移動を手助けするなんていうことが、できるだろうか。歴史が全て正しいとは思わないので、結局のところ、ミミズをぼくが枝を使ってどこか気持ち良さそうなところに移動するのも現代思考としてミミズの世界に激震を与えるかもしれない。いや、これまで人間が何億人と死んでいる中でミミズを心地よい場所へ運んだことのある人間など山のようにいるのだから激震を与えられるわけはなさそうである。家に帰り、朝食にピーナッツバタートーストを食べる。14時から山下達郎サンデーソングブックを聴き、18時前にPolpetteを作り始める。お風呂に入り、自分は何気ない日常から突然カオスな世界に飛び込み、そしてふとした瞬間にまた日常に戻るといったような感覚。思考と想像力が暴走する、そのスピード感だったり、美しさとカオスのアンバランスさだったりとか、何もなかったかのような気分だったり。日曜日の昼下がりにうたた寝をし、その時に見た夢がカオスだった。起きても、そこには淡々とした日常が変わらずある、そんな作品が自分の理想とする世界観である。21時からBuikのレモンケーキを食べながらエリック・ロメール『満月の夜』を鑑賞。80’s以前のフランス映画に出てくる現代建築には常に憧れを抱いてしまう。ぼくもあんなふうな建物に心地よく生活を持ちたいといつだって思うのだ。それにしてもエリック・ロメールの映画を字幕で簡単に見れるなんて21世紀はどうなってしまうのだろうか。 映画を観ていると、自分の住んでいる家がみすぼらしくなってしまうような背筋が伸びるような、いろいろな邪念や俗物に犯されていた感覚になり、今の自分の思考や生活を恥じる。恥じていても仕方がないので、何が出来るだろうか。買い物ではないはずだ。買い物によってものを減らすというのがぼくの理想である。それは自分のテーマの一つだ。