2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2020.5.27

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2020.5.27

死は比較するものではない。比較できるものではない。死という言葉は一つだけれど、個人に立ち返れば、その一文字の中に、一文字でまとめられないだけの物語がある。不思議な気分である。
死の直前には、おばあちゃんは何を考えていたのだろうか、思考は弱くなるのだろうか、諦めてしまうのだろうか。「アチャ、足を滑らせたわ」と思うだけの余裕はあるのだろうか、死ぬ前に何を思うのだろう。自分もいつか経験するその瞬間に、自分自身は何を思うのか。何を考えるのだろうか、それは誰も知らない。幸せだったらいいなと思う。
先週、おばあちゃんと電話した時は、「奈良はコロナは大丈夫、私もこんな歳やから」と話していたが、元気そのもので話し出したら止まらないような状態だった。羊羹を送ってくれたり、ローソンの人々との話も面白おかしく話していた。ローソンの人たちは心配しているだろうか。
叔父や母はどのような気分だったのだろうか。連絡がつかないというときに、もう死を覚悟したのだろうか、その瞬間の感情はどのようなものなのだろうか。自分が60に近いという時に、親の気持ちは理解できるのだろうか。30年後にどのような関係を築けているのだろうか。
延々に解けない疑問は、病院ではなく、一人で死んでいく時に、どんな気持ちなのか、何を考えるのだろうか、何か言葉を発したのだろうか、そんなことを考えると涙が止まらなくなる。その答えを誰も知らないし、知りたくもないし、こんな気を遣う世の中で精神的に参っていたのかもしれない。
あまり何も考えたくない、考えると音が頭の中で響き続け悲しさだけで体を覆ってしまう。だけれど、きちんと言葉にしないで時間とともに忘れ去られてしまうのはもっと情けないことである。こういう時こと、言葉を紡ぐこと。そんな風に感じている。死を知らされた時の感情、言葉が言葉以上の意味を持つ時。死を知らせる時、その瞬間の知っている側と知らない側の心の動き。
大学の入学祝いでもらった万年筆を再び使う時が来たのかもしれない。
死への感情は一方的だ、それに対して死者が何か返答してくれるわけではない。そう思って欲しいと思っているかもわからない。死者としては、ほっておいてくれと思っているかもしれない。誰にもわからない。
感情は一方的だ、感情は一方的過ぎる。そして、その放った感情という矢は自分自身にぐさりと突き刺さるだけなのだ。いくら放ってもそれは途中でこちらに方向転換し、自分自身に向かって飛んでくる。そして、しっかりと突き刺さるのである。空に向かって投げた石がそうであるのと同じように。
音の響きを忘れたくない。名前を呼ばれた時の響き、その音とあう表情の動き。なぜ、孫の名前に「さん」付けいたのだろうか。大人になった孫たちに対する敬意なのだろう。学生の頃は、「ちゃん」付けで呼ばれていたように覚えている。
先週もぼくにいろんな甘いものを送ってくれた。次はハムでも送るといっていた。冷蔵庫に入らないから遠慮すると言ってしまったが、そのハムはどうなったのだろうか。もし発送されていて、荷物が届くようなことがないことを祈る。死者からの荷物が届いた時にはどうすればいいかわからない。最後まで自分たち、子供や孫のことを忘れずに生を全うしていたのだ。
ある人達からすると、これまで仲が悪かったのも、今日でおしまいである。死んでしまえば仲が良くても悪くても同じなのである。気が合わない、意地悪されるなどいろんな理由で仲が悪いのだろうけれど、途中からの意地の張り合いも、死んでしまえば意地なんて存在しない。互いの方向から力がかかっているから意地を張りあえるのだけれど、片方がなくなったらそれでもうそこには意地は存在しなくなる。
 嘘も、恥も、死の前では無力なのだ。誇りだけは死をも超えていける存在だろうか。何か、他にもたくさんあるのだろうけれど、今はそこまで頭が回らないようである。誰かにとって誇りに思える存在。そんな風にありたいものだ。多くなくていい。少なくてもいい、きちんと誰かにとっての誇りになれるように生を全うするのだ。死者を伝える数字以上に、感情はない。死者と面と向かい、その存在を見ること、
生と死を二分化するのは今のぼくにはなんだかしっくりと来ないのだけれど、世界が二つあると考えたときに、どちらにいたいかという問題なのかもしれない。ただ、この世界は一方通行で、生の世界から死の世界へは行くことが出来ても、死の世界から生の世界へは戻れない。
先に逝ってしまった最愛の人と久しぶりに会うとなんだか違うなと思うのだろうか。その再会に、ぼくは涙を流したい。