2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2020.5.25

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2020.5.25

8時半に起きる。夜更かしのせいで、全く起きられない。起きてはいるのだけれど、目覚めは最悪である。頭は冴えないし、フラフラするし、空気もモワッとしているし、また1日が始まったというような感覚にさえなる。だけれど、今日はいい夢を見た。こんな夢だ。
ぼくは、ずっとmacbookで小説を書いている。既に、何万字と書き、自分自身も書きながら、自分自身も物語にのめり込んでいる。ぼくは既に小説の中にいるような感覚になる。いや、自分で書いているにも関わらず、次の展開が待ち遠しい。何か展開があると、「おお、すごい。ここで彼女は、カンガルーを選ぶのか」などと唸ってしまうほどである。食べる時間も寝る時間も惜しんで文章を書き進めてしまうほど没頭している。夢中とはまさにそういうことだろう。歩く時間さえも惜しいので、街中を歩くときもmacbookのキーボードを叩いている。どうやって叩いているかは、不明。夢なので、そのようなことは多々ある。あれは、NYブルックリンの街角だった。と言ってもぼくはブルックリンに行ったことはないので映画やドラマの中のブルックリンと言うべきか。赤いレンガ造りの家が並んでいる。その角を小説を書くことに夢中になりながら歩いていると後ろから中学の同級生が来た。名前は伏せておく。いじめっ子だ。ぼくもよくバカにされていた。関西なので、いじめとは言えないような感覚だった。仲は良かった。(と思っている)その彼がぼく背後に忍び寄りmacbookを掻っ攫ったのである。気付かなかった。鴨川にいるトンビのように背後から忍び寄り一気に掻っ攫い走り去った。突然のことで狐につままれたようになったが、あのmacbookにはぼくの小説の全てが入っていると咄嗟に思い出し、追いかける。エドワードホッパーの絵に描かれそうな角にあるガラス張りのカフェを超え、さらに追いかける。もちろん、ぼくのほうが足が速かった。後、一歩というところで力を振り絞って飛びつく。いじめっ子の友人もそれにバランスを崩す。ラグビーで、タックルを交わされたが背後から飛びついているような感じである。楕円形のボールはmacbook。もちろん、ノックオンである。その瞬間に目覚めた。目覚めは最悪だし、汗が出たので、急いでパソコンの電源を入れ、ハードディスクにデータを移行させる。
今日は、そんな夢を見たので、必死で今書いている文章を書き進める。日記も書かなかった。昼は、炊いたお米が残っていたので、何年振りかわからないけれど、チャーハンを作る。久しぶりに作ってもなかなか上手くできるようだ。中学生の時に一番最初に父親から教わったのはチャーハンの作り方だった。卵を入れて、そこにお米をいれて炒める。パラパラになったら、一度お皿によける。他の具材を炒めて、最後に卵と炒めておいたお米を戻し、合わせる。味付けには少しのだし醤油を入れる。そんな感じだった。父親は、ぼくが中学生頃に「お前もデザイン覚えておけ」とillustoratorとphotoshopの使い方を教えてくれていたので、なんだかんだ反抗期だったので、ちゃんと学ばず今では少し後悔している。あのことデザインにハマっていたら今はデザインをやっていたかもしれない。そんなこと今更思っても仕方ないので、後悔とは言えないが、時々思い出す思い出の一つだ。
むすびガーデンに買い出しに行く。久しぶりの買い出し。毎回思うが、冷蔵庫さえあればもう少し楽しい食材が買えるのになと思う。だけれど、この家で冷蔵庫を置く場所はない。肉の手塚で、鶏むね肉を一枚買う。牛スネ肉は次回にする。
夜は、昨日作ったトマトソースを使ってパスタポモドーロ。パルメザンチーズだけかたとてもシンプルなもの。
食事の後、『市民ケーン』鑑賞する。20分くらいで、全く今の気分じゃないということで断念。もし、映画館で観ていたら、途中で断念する気にもなれず何かそこから楽しみを見出すというような鑑賞方法が残されていたのかもしれないと思うと残念。同時に、こうやって途中で気分じゃないという理由で辞めることも時代的な映画の鑑賞方法だな。
Bored to deathのシーズン2を見始める。なんだかんだハマっているのかもしれない。無意識で笑っていた。TVドラマは「おい、それはないよ」だとか「わあ、すごい」とか観ながら一人で突っ込みたくなる。
Radikoのタイムフリー機能で、先週の金曜日にやっていたらしい村上Radioを聴く。24時ごろまで作業をし、就寝。ついに、緊急事態宣言が解除された。明日から徐々にお店が再開されるという。DSMGも例に漏れず。