2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2020.5.20

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2020.5.20

今日は、久しぶりに出社するので、あまり寝られなかった。5時半ごろに起床するが、なぜか急に布団から動けなくなり、そのまま7時頃まで布団の中でマークトウェイン『ハックルベリーフィンの冒険』を読み進める。終わりに差し掛かっているというのにかなり盛り上がってきた。これを子供の頃に読んでいたら正しく嘘を付くことを覚えていたかもしれない。それから言葉の真意をつかむのが上手くなっていたかもしれないと思えるほどである。ハックルベリーは、黒人ジムと一緒に旅をしている。作中、ジムはくろんぼと呼ばれる、黒人が奴隷として使われていたアメリカの社会の中で、白人であるハックルベリーとジムが助け合って生きているのだ。ハックルベリーの口から放たれる様々な汚い差別用語とは真逆のような美しい心があり、言葉の真意を見抜くことが出来る。
お弁当用に玄米を炊き、トーストを食べる。8時50分頃、マスクをつけて家を出る。こうやって、外出する時に何かを付けて出るというのがなんとも不思議な気分になるのであるが、簡単にいうと臨戦体制に入るような気分である。誰か、何かと戦うわけでもないのに、それでも臨戦態勢に入るような感覚である。自転車で出勤したかったが、雨なので、仕方なく電車で行くことにする。パソコンや、諸々の持ち帰っていた荷物が多かったのでちょうどいいかもしれない。少し不安なので、イヤホンをして音楽を聴きながら出勤することにする。最近、音楽を聴きながら移動することを避けていたのであるが、今日は、45日ぶりくらいの電車なので、念には念を入れて出社する。駅まで歩いていると、いつもの感覚に戻ってきた。気づけば、電車の時間に合わせて行動している。1分の遅れも電車は許してくれないので、走らなければいけないし、早足で時計を見ながら歩かなければいけない。定期を改札でピッとタッチし、お金がチャージされるのを表示すると、何か止まっていたものが動き出したような感覚になる。ホームに降りるエスカレーターに立っていると、ホームから聞こえる電車到着のアナウンスと、イヤホンから流れる音楽が、映画のような世界に自分が入ったような感覚になる。イヤホンから挿入歌がかかったような感覚。なぜ映画のようだったのかと考えてみると、ホームのアナウンスが普通に家で聴いている音とは全く違う次元のもので、それに強い違和感を感じたからではないだろうか。ホームにはポツポツと人がいる。久しぶりに電車に乗るも、普段の7割くらいだろうか。座席は全て埋まっており、立っている人が各座席の前に数人立っているくらいの状態。窓が空いていないので、窓を開ける。窓を開けずに乗っていて、どんな気持ちで乗車しているのだろうか。窓空けが推奨されている中で、平気な顔をして乗っているし、緊急事態宣言下でもこうやって電車に乗っているのだから、反政府、反体制的な態度表明だろうかとすら感じてしまう。いや、あまり何も考えていないのかもしれないと思う。ただマスクはしっかりと着用している。出勤している人がこれくらいいるんだなと家にいるとわからないことがたくさんある。
10時からDSMG。オフィスが改築されていてなんだか開放感を感じた。新しいスペースはすごく興奮する。昼は、持ってきたお弁当を食べる。玄米と梅干し。一合くらいを梅干し一つで食べるのは少し無理があった。銀座にも普通に人は歩いているが、全体的には静かである。デパートがやっていないというだけで奥様方の活動が制限されているように感じた。仕事で来ている人を除けば出歩いている人はほとんどいなさそうである。17時に出社命令があり、帰宅。せっかく銀座に来たのだから、銀座ウェストでバターケーキを買って帰る。帰りの電車は帰宅ラッシュとかぶるのかなと少し不安だったが、かなり空いていて安心。座席7人がけに3人ずつくらいしか座っていない、絵に描いたようなソーシャルディスタンス。田園都市線はやはり少し混んでいる。窓を開ける。ホームから駅員さんが窓空けをしていて、なんだか心安らぐ。些細な行為でも人の心を安心させるんだなと思う。
帰宅し、シャワーを浴びる。夜は、昨日の残りのミートボールを食べる。食後にバターケーキを食べる。映画を観る気分になれず22時半には就寝。体力的な疲労ではなく、精神的な、疲労がたまる印象。心遣いなど。