朝6時に起床し、布団でぼーっとする顔を洗い、パジャマを脱ぎ、デニムを履き、ティシャツを着て、パーカーを被り7時前に家を出れ散歩に向かう。今日は驚くほど快晴である。気分がいいので、いつも通り、木を触りながら歩き、桜をみて、お馴染みの家族たちを横目にお気に入りのスポットへ。今日も陽の当たり方が気分をすっきりとさせてくれる。しばし木にもたれかかり心を落ち着かせる。1日の中であれほど心が落ち着くことはあるだろうかというほど落ち着いた気分になっている。今日は、仕事もないので、公園を一周する。ファミリーパークと呼ばれるエリアがあり、外周はランニング・サイクリングコース、中はとても広い広場になっている。とはいえ、単純に芝生が広がっているわけではなく、ワイルドな気が生えていたり、テーブルと椅子があったり、とても心地よいエリアである。整備されすぎていないこととなだらかな坂になっていることが心地よい。ある本で砧公園は、ロンドンでいうハンプステッドヒースだと書いてあったが、ぼくも同様にそう思っている。市内からの距離感といい、公園ではあるものの、森林のような雰囲気を持ち、市内を眺められる(わけではないが気分にさせられる箇所がいくつもあるのだ。)。毎日、散歩から帰り手を洗い、歯を磨き、朝食を取る。今日はオムレツと、ピタパンとミルクティ。もちろんピタパンをこうやって食べるのを不思議に思う人もいるだろうが、パンがないので、どうしてもこんな風に食べざるを得ないのである。パンが食べたい。プーパンニッケルでも買うべきだ。久しぶりにオムレツを作った。用意周到で作った割にはビビりなので火を入れ過ぎる。ビビりの性格はこういう料理にも現れる。オムレツを作っているといつも思わされる。その後、前日分の日記を書いているのであるが、なんだかいつの記憶かが正直わからなかくなってきている。朝の散歩も昨日考えていたことなのか、今日のことかすら少し思い出すのが非常に困難になっている。何か変化のあるものに自分の記憶や考えが連動しているから色々なものを思い出すことができるのだけれど、今は同じことが繰り返されているように感じてしまう。毎朝出くわす、家族たちも木も、天気も、なんだかもう少し心が細部の変化に敏感になるまでには時間がかかるのかもしれない、それを記憶に残すこと。その瞬間瞬間では色々なことを感じ考えていてもそれを頭の中に残すことが難しい。その部分の脳を長く使うのをやめていたせいだろうか。日記を書き、部屋の掃除をし、エリック・ロメール『六つの真実の話』を読み進める。秋のプレイリストのカバーを作る。これでひとまず全て完成した。昨晩、聖子ちゃんが送ってくれたプレイリストを聴いてみたが、驚くほど暗くて少し不安になった。今の日本で聴く音楽ではないなと思ってしまったほどである。聖子ちゃんの気分がそれくらい暗く落ち込んでいるのか、それともアントワープという街がそれくらいダークでソリッドな街なのか。暗いという表現は安易かもしれないが、ぼくはなんだかその音楽たちからは不安さえ覚えてしまった。と同時に、不安は人の想像を掻き立て、プレイリストの作者である彼女の生活に想いを馳せることになった。それこそぼくがなぜプレイリストを作るかということで、自分が感じているものがそのまま選曲に反映され、生活や思考、想いが滲み出る。それがぼくがすごく好きな部分である。APRIL MUSICとタイトルが付いていたが、アントワープの4月という風なタイトルを付けるべきかもしれない。昼食は、昨晩の残りのタイカレーを食べる。カレー全般に言えることだけれど、カレーは一日おいたほうが美味しくなる。タイグリーンカレーはさっぱりしているので、作りたてでもかなり美味しく、二日目はだいたいにおいてもう少し濃くなる。他のカレーは1日置いた方が美味しいようにも思える。そんなことを言っているとビーフカレーが食べたくなってきた。ゆっくりコトコトと煮込んでビーフカレーを作ろうか。次の買い出しは、30日なので、それまでに食べたいものをリストアップしておかなければならない。お肉は冷蔵庫の関係で、2種類までしか買えない。前に食べたがPolpetteがめちゃくちゃ美味しかったのでまたビーフミンスを買おうか。パルメザンを買わなければいけない。食後に、山下達郎サンデーソングブックを聴きながら掃除をする。今日は90’sのライブ音源を流していた。来週は、ライブ音源カバー曲特集らしい。自分の曲ではなくライブで演奏、歌ったカバー曲を流してくれるのだという。かなり良さそうで、今から待ち遠しい。山下達郎バージョンのplastic loveは流れるだろうか。amazonプライムのWOWOWシネフィルで『イルポスティーノ』を鑑賞。感動して涙が出た。心が洗われるような感覚に陥る。映画を観ながらbuikのレモンアーモンドケーキを食らう。人々は映画に何を求めているのだろうか、現実逃避だったり、刺激だったり、時間つぶしだったり、色々だけれど、この映画を観たぼくはイタリアのナポリのカプリ島にいる気分になったし、自分の物事に対する姿勢に合わせて付いてくる俗っぽさとか邪念のようなものを強く感じてしまった。主人公のマリオ・ルオッポロがチリから亡命してきた詩人パブロ・ネルーダと交流することで詩や文学、芸術に目覚めていく。そして、自分の心から湧き出る言葉で一人の美しい女性を動かし、社会変革をしようとする。純粋な芸術や文学がそのような力を持っていることを強く感じさせられ、今自分が考えていることや、やっている仕事などは虚構ではないだろうか、これで誰かが幸せに人の心を変えられるのかと自問し、自己嫌悪に陥る。マリオ・ルオッポロの純粋さと、学びの気持ち、パブロ・ネルーダの芸術を信じる力がとても美しいイタリアの田舎町の風景と共に描かれていて本当に自分でも驚いたが目から涙が溢れ出てきたのである。実際の撮影は、プロチーダ島でされたらしくこの食堂も実際にまだ残っているということ。行ってみたい。滝川クリステルがJ-WAVEでやっているラジオ「サウージサウダージ」を聴き、夕食の準備を始める。かぼちゃのロースト、フムス、クスクス、キャロットラペ、ポテトのロースト。色々な種類を少量ずつ食べる。ローストしている間に、エリック・ロメール『六つの真実の話』を読み進める。過去の日記を漁っているのであるが、自分の日記の稚拙さ、安易さ、ただ文章量や文字数のかさ増しのような文章に嫌気がさしてしまう。ちょうど詩をテーマにした作品を観たからだろうか。パブロ・ネルーダが劇中にマリオ・ルオッポロから詩を別の言葉で説明してほしいと求められるシーンがあり、それに「詩は言葉や他の何かで表現できないから詩として成立している、詩を感じなさい」と言っていたのが印象的だった。説明不要という言葉があるが、そうではなく説明が出来ない、説明することで陳腐になることは多いのだ。それがその方法だから美しく存在しているというのに、それを崩すことにどんな必要があるというのだろうか。ぼくの日記も、説明でもなく散文でしかないのだ。散文というタイトルをつけたいと思う。フィジーの頃は気狂いのような生活をしていたようである。聖子ちゃんと電話をし、22時半にお風呂に入って、23時過ぎに本を読もうと思ったがもう力尽きて就寝。早起きをしているとどうしても早く眠くなってしまう。これまで食事を食べるとは言わずに、「食らう」という言葉を気に入って使ってきていたのだけれど、なんだか突然気分ではなくなったので、今日から「食べる」とか「取る」と書くことになりそうだ。