6時起床。もうこの時間の起床が当たり前になっている。朝起きた時に死ぬような気分になった。咳がすごく出る夢を見た。起きてもなんだか喉が痛いような錯覚に陥る。思考が自分を苦しめる。思考がそこにあるのか、身体がそこにあるのか、痛みがそこにあるのかもわからないくらいになっていた。実際に起きると、喉の痛みや胸の苦しみは消えており、むしろ快適すぎる朝を過ごす。今日は休みなので、特にデスクに8時半に座る必要がない。ただ、一件依頼を受けていた仕事があったのでメールのやり取りだけする。10時から買い物に行こうと思っていたが、facebookを見ると、KENNEDY magazineのQuarantine Diaries1が上がっていたので、読む。METのアーカイヴが面白いと書いてあり、リンクに飛ぶと、もう異常なくらい面白い。METの所蔵作品が一堂にオンラインで見れるのである。検索機能があり、そこで例えば、「Chair」「Book」「Clothes」とか入れると関連する所蔵がでてくる。最古の作品になると、何かの破片だったり、破れてコンプリートされていない紙だったり、象牙を彫ったものだったりとオンラインからもそのものの持つエナジーというか、感じるものがある。ラジオを聴いていると、オーストラリア大使館の方が話しており、オーストラリア人はとてもポジティブだなと思った。あまりネガティブなことを言わずに、今はみんな料理が上手くなるように家でたくさん料理をしましょうとい言っていた。信じる力が強いと思う。めーちゃんからプレイリスト聴きながら在宅ワークやってるよと嬉しいメッセージが届く。プレイリストを聴いてくれる人が多いのはとても嬉しい。ぼくもたくさんの人のプレイリストが聴きたい。音楽は、自由になった、どこでも音楽が聴けるようになったけれど、同時に多くの人はその場所の音楽を聴くことが出来なくなった。実際は、しなくなったという方が正しいのかもしれない。旅先でもイヤホンをしている。その土地の音を聴かない。自分を 映画の主人公のようにし、挿入歌を入れるように自分の行動に対して音楽を聴いている。ぼくは、それがあまり好きにはなれず、その場所にはその音があり、それを自分が受け取ることが出来るかということに興味がある。朝、公園に行くとそこには鳥の声も、木々が風で靡く音も、子供がお父さんを呼ぶ声も、自動車が走り抜ける音も、泥濘に自分の足がはまる音も、いろいろな音がオーケストラのように、いや各々が音を出しているのでオーケストラではないが美しき不調和音である。そんな音を音楽として楽しむ。キッチンから聴こえるラジオの音と水の流れる音や包丁が野菜を切る音も同じである。高速道路を走っていると反射してくる車の音も素晴らしい。一方で、 高速道路で聴く音楽も存在するのは事実だ。音楽の楽しみ方が広がったのは確かである。そういう意味では人が家の中で聴いている音楽をただただ共有してくれるだけでぼくはとても嬉しいのだ。それが、人が選んだもの、並び直したものだとなお嬉しくなる。ぼくは、自然が自然のまま存在するものよりも、人が少しだけ手を入れたものが好きである。掃除をする。休みの日はしっかり掃除するに限る。家で過ごしているだけでもこれだけ埃が出るのだから、ワンルーム一人暮らしは辛い。小さくてもいいからベッドルームがある生活がいい加減したいものである。昼は、昨日のサーディンが残っていたので、ブリーチーズとペコリーノでリゾットを作る。食後にランニング。むすびガーデンで食材を購入。10日間分くらいを購入。7000円くらい。なんだか戦場に行くような気分になる。冷静さを失い、レモンを買うのを忘れた。フムスを作ろうと思っている。ピタも買ったので、ナスをトーストし、フムスと食べたい。ジェノベーゼも作ろうと思うし、ちょうどいい。最近は、和食ばかり食べているように思う。米はまだたくさんあるので問題なさそうだし、味噌もまだ大丈夫だ。日本の食生活って籠るのに適しているなと思う。基本的には長期保存を視野に入れた食材が多い。干物だって、米も味噌も、漬物も、梅干しも、冷蔵庫さえ必要ない。本当に色々あって楽しいと思う。都会の生活は便利だと思うが、こういう時に辛い。郊外型の生活であれば、ある程度の広さもあるし、庭もある。自分の庭で野菜を育てたり、花をやったり、太陽を浴びたりして過ごすことができるだろう。これで建物が変化したり、住まいの形が変化するのには興味があるが、まだそれを面白がるのは時期尚早ではないだろうか。COVID-19でいろいろな人が次のライフスタイルや、今だから出来るビジネス、今を糧にし次へ、今だから出来ることなど、話しているが、医療従事者やスーパーで働く人などの視点に立たなさすぎると感じてならない。自分も、正直2月末、3月の頭までは「自分は大丈夫だから自分のするべきことをしなければならない」と思っていたし、つい最近まで価値観や倫理観が変わるのだ、それに備えなければと思っていた。だけれど、それからもう2ヶ月くらい経つと、正直COVID-19でライフスタイルが変わるというのは考えなければならない問題ではあるものの、じゃあ医療従事者やスーパーで働く人たちは僕たちの生命を支えているのに彼らには次のライフスタイルを考えることすら出来ないのかと思うと自分たちの命はどこにあるのかと思ってしまう。うまく言葉にできないが、次のライフスタイルとか、何か提案している人たちには違和感を感じるので、ぼく自身はあまりそのようなことを言いたくはない。ただ、根源的に人間がなぜ行きているのかということをぼくは常々考えて生きているので、通常運転で行きたい。もちろん世界は変わるし、自分の価値観も倫理観も変わるのだけれど、それはうちに秘めておく。もちろん知識も予見能力も乏しいので、話せることなどあまりないのだろうけれど。もちろん話すこともいいし、大切だと思うけれど、悲しいけれど、何かとぼくはそれらに対して違和感を感じる。散々ネットを見ないと言いながらも、ある瞬間にネットを開くと自然と入ってきてしまうあれこれに振り回されてはいけない。どんな状況でもやることは同じだという強い気持ちでありたい。買い物から帰り、フローラ洋菓子店でチョコレートケーキを買い、シャワーを浴びて、ずっと見れていなかったエリック・ロメール『海辺のポーリーヌ』を鑑賞。久しぶりに映画を観た。その後、勅使河原宏『IKEBANA』をyoutubeで鑑賞。また、渋谷なんとかさんとか、色々とあなたにオススメと出てきて、よく分かんけどすごく不快だった。別にオススメされても観ません。夜は、ひじきと人参、豚肉とピーマンを炒める。味噌汁とご飯。なかなか上手くできたので嬉しい。こうやって日々新しいものに挑戦するのはなんだか楽しいものである。救急車が1日に5台は発動していた。恐怖を感じずにはいられない。自分にも何かできることはないかと考え、これまで買いたエッセイをまとめてみることにする。最近は、写真集などよりも読み物に気が向いている。ゆっくりと時間をかけて読んでもらう、使ってもらうものでありたい。ペラペラっとされるのはなんだか気分に合わないし、それを提案したいとは思えない。早速2014年に買いたエッセイを文字起こしする。データが行方不明である、非常に残念。