2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2020.03.01

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2020.03.01

BIBLIOTHECAでメルボルンのPerimeter Books、Perimeter Publicationsから出ているYarra Riverのドキュメンタリーを取り扱っているので、読んでいた。ぼくは、2013-2014の間メルボルンに住んでいた。だから、Yarra Riverがどんなものであるのかということを体験とともに知っている。知っていることでドキュメンタリーにリアリティが生まれる。メルボルンのことを知らない人たちにとって、このYarra Riverのドキュメンタリーはどのような魅力があるのだろうかとすら思ってしまうほどにぼくの体験がこの作品においての重要なポイントになっている。ただ、多くの場所や出来事を自分の経験にしていくことで何かを想像しやすくなることは当たり前なのだろうか。例えば、NYに行ったことないぼくがNYのアートシーンに夢を見ることは可能であるが、深く知ることは不可能である。厳密にいうと知ることは可能であるが、それが本当に知ったことになっているのかはぼくには不明である。では、「知るとは何か」という問いにぶち当たる。まず第一に情報として知ること、肌感覚で知ることとは明らかに違う。情報として知っていることがあたかもその物事を正しく知ったかのように振舞えてしまう時代において、知ることは何だろうか。例えば、いま同僚たちがパリコレクションを観にパリに行っているが、なぜ観に行くのか。正直に言って、自分の経験からして、ぼくはそこで何か有益な情報が得られるとは到底思えない。自分の経験から言って、そう思えたことがなかった。ただ、思考の変化があることは間違いなく、目に見えない部分で大切なものを受け取るのである、受け取るべきなのである。どんな人が来ていて、誰がどんな場所で何をしているのか、現場で空気を感じることがいかに重要か。パリでバゲットを食べてみたり、フランス語を浴びるように聞いたり、交通渋滞に巻き込まれたり、そんなことが実はすごく大切なのである。それを持った上で何か洋服を見たり、情報を聞いたり集めたりして、身体に蓄積する。自分の体験と情報とを練り合わせるような作業、それこそが「知るとは何か」なのかなとぼくは思っている。だから、出張先でコレクションを観て、ただただパンをかじってコーヒーを飲んで、人に会っているだけでそれが仕事なのだ。もちろん違う。ただ、その場所で体験として蓄積しておくべきことがあり、その体験による蓄積こそが、数ヶ月後、数年後に膨張していくのである。いや、させなければいけない。それはまた後々の仕事になるのだ。話は戻って、Perimeter Publicationsから出てるこの書籍に想いを馳せるにはある程度のメルボルンに対する情報と、Yarra Riverで遊んだ経験などが必要とされる。その情報や経験がないならないなりの学びがあることは間違いないのだけど。ある作品を知る時にそのアーティストがどのような環境でどのように制作しているのか、自分の経験とそれらが共鳴するとより作品を知ることが出来るので、ぼくは経験の重要性を強く感じている。先ほど書いた出張の話も同じである。それとはまた別で、鑑賞者に夢を見させるという意味では、情報や経験と全く関連のないものを作品の力のみで伝えることも大切なのかもしれないと思う。Perimeter publicationsのこれは作品力はあまり強くは思えない。ただ、たくさんのことを知ることによって、悲しさを全て受け入れることになる。失う悲しみや辛さも全て。色々な出来事を自分の事柄のように感じるために、いろいろなところに足を運びリアリティを自分のこころに植え付けることも大切だと思うと共に、夢を見続けておくこともいいのかもしれない。答えはわからない。