2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2020.2.11

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2020.2.11

家で、ノア・バームバック『While we're young』を鑑賞。邦題は、「ヤングアダルトニューヨーク」、ノアバームバックは久しぶりに監督で観ている監督である。
監督で観るとか、作家で観るというのは映画を見る一つの方法で、出演している俳優で観る、という意味ではアダムドライバーはその一人になりそうである。なぜか、彼を見るとアンダースエドストロームを思い出すのである。がっちりとした体型からだろうか。調べてみると、彼は2001年のNY同時多発テロを境にアメリカ海兵隊へ入隊したという。彼が18歳の頃だ。そのような感覚になる程、衝撃的な事件だったのだろう。ぼくはテレビでその光景をゲームの中の光景のようしか感じられず、見ていた。グラウンド・ゼロにも行ったことがない、ましてやNYには一度も行ったことがないのだ。痛みはわかりたい。

「俳優で観る」ということを考えていると、「この映画館が放映す流のであれば行く」とか、「この人のセレクトであれば観たい」いうような映画館はあるのだろうか。批評家たちにはそのような感覚がありそうである。
と考えると、洋服の業界というのは既に驚くほどビジネスとして形になっている。
ブランド側(映画で言うところの監督)からの戦略と、 お店(映画で言うところの映画館)からの戦略と、スタイリストやメディア(映画でいう、批評家やメディアか?)からの戦略がうまく混ざり合い、様々な価値観を与えてくれる。
映画は先払いだけに、カフェなどと同じでこの実態を知る前に支払いがある。もちろん調べることは出来る。しかし、洋服や、本屋もそうで買うかどうかをいろいろ試した後に決めるのだ。その点、購入に対して安心感があるのだろうか。金額の問題もあるだろう。
なんでそのような構造になっているのだろうか。
とは言え、今やカフェももう既にInstagramのおかげで(せいで)先にカタログのようにメニューを見ることが出来るのだ。これで少し味見が出来るシステムが完成したり、食べた後に支払いするかを決めるようになる(ちょっと違う気がするが、、、)とどうなるのだろう。