2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2019.11.11

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2019.11.11

朝から傷病手当の申請をする。
梅ヶ丘の図書館へ電話をし、書籍の問い合わせをする。カードを持っていないので、予約ができないというが、本棚に並んでいるので、一日カウンターでお預かりなら出来ますよということだったので、電話で取り置きしてもらう。
自転車で、梅ヶ丘まで行く。20分くらいだろうか、全然遠くないので、何で初めて来たのかと不思議になるくらいである。
空きテナントや物件が目に付くくらいにたくさんあり、こういうところでお店かスペースを設けたらどうなんだろうか、と考える。ただ、梅ヶ丘には、住めそうもない。こういう雑多な世界観のところには住めない。自分が生活してきたこれまでの環境と違いすぎるのだ。きっと、小田急線沿いには住めそうもない。少しの憧れも抱くことが出来ない。
ぼくは、住宅街で育ったし、住宅街か、田舎の生活しか出来そうもない。便利な下町的なところでは生活できないのである。
図書館へ行き、竹内万里子『沈黙とイメージ』を借りる。
竹内万里子さんは、ケンくんの大学の先生である。
このところ、制作意欲が湧いているのであるが、どうも椅子に座って制作しようと思っても何も進まない。ぼくの場合、制作と言ってもこれまで撮りためた写真をどのように纏めるかという編集作業でしかなく、頭が動いていない今、それをするのがかなり難しい。
旅行記だとか、ダイアリーだとか、という纏め方は簡単に出来るのだけれど、もちろん、そういう風な撮影方法をしているので、一般的には旅行記とかダイアリーという風に纏めるべきだと思うのだけれど、ぼくの場合は、なぜその撮ったのかをもっと深く問いたいのである。寿司屋に行って何をどんな風に注文するのか、女の子をどのように口説くのかという、いわゆる命題のようなものを作品たちに付けていかなければならないのである。人生どう生きるのか、自分のストーリーを紡ぎたいのである。借り物ではないストーリーである。ただそれだけが社会に対する問いである気がしている。頭が回らない今の現状だとそれ以上のことを言葉にすることすらできそうにない。
そんな状態でも作品を作りたいという制作意欲があるのは自分自身嬉しいことである。
夜は、スープドポワソンを作る。制作意欲は、料理の方向へ向き、制作意欲の消費という自慰行為のようになっていないだろうか。自慰行為は生産性がなさすぎやしないか。一方で、料理をすることは自分にとって身体と心をニュートラルに保つことが出来るので、日々の営みにおいて必要なことなのである。だからと言って料理をしてお金をもらうかというとそういう訳ではない。