2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2019.9.2

Translate

2019.9.2

6時半に起床。
コーヒーを淹れようと思ったが、コンロの火がつかないので、諦める。水を飲み、グレープフルーツを剥き、食らう。コーヒーがないとパンすら食べる気にもなれない。
約束の時間通りに場所へ行くこと、が久しぶりだったので少し動揺するが、それでも以前のような気分にはならない。向かいたくない理由が、仕事が嫌だから拒否反応のような形でそれに体が反応しているわけではなく、久しぶりのことなのでただ緊張しているからであることがわかると体は動くようになる。大きな発見である、もし何か嫌なことがあれば、その嫌である理由を明確にしてゆくことで問題はそれほど大きいものではないと考えられるようになった。冷静であること、ことは思いの外大きくはない、ということも多いのだから。こんな量の作業をしなければいけないと思うとゾッとするが、細かく砕いていくと、意外とシンプルで時間も工程もそれほど必要としないということがわかることもよくある。
9時過ぎに家を出る。久しぶりに銀座まで行き、10時から森さんと話す。
最近、目の前や近くにいる人が、信頼のおける人なのか、話して理解してもらえる人なのか、そんなことをよく考えている。
もちろん、他人を否定するわけではなく、彼らはあくまで他人であり、自分がどれだけたくさんのことを知ってもらいたいと伝えたところで理解するのには、お互いの過去の体験や思考の訓練とか実践の結果とか、同じことをどれだけ共有したか、体験として肌で感じているのかなど、様々なことがある一つの物事を理解するのには必要だと思っている。同じことを同じように理解するなんてことはなかなか難しいことなのであると考えている。
その事実に絶望しているわけでも諦めているわけでもなく、ただそれを事実として横に置いておき、(または大前提として)この人とはこの話が出来るようになったんじゃないかとか、この人には相談をするべきではないとも思うことがある。決めつけがすごいと言われればそれまでなんだろうけれど。
自分が思う以上の自分の思考は細部のディテールに宿るし、この人はこういう紙の畳み方をするからとか、コーヒーカップは紙ではなく陶器のものしかしか使わないだとか、手を頻繁に洗いに行くなとか、そんなことを理解している上で、ある一つの物事をより深く共有できるのだと思う。時間を共にする、何か一つのものをシェアするというのは非常に大切なのだと思う。現実だって一つしかない、その時間をシェアする(もちろん、人それぞれの時間を持っているという感覚もあるが、)、同じ食べ物をシェアする、自分の買った1つのエクレアを半分にしてシェアするとか、同じジョイントを5人で回して吸うとか、そんなことをしていく中で、お互いを理解をすることが出来て、ある一人の行動が理解できて、ある一人の悩みを深く知ることが出来て、ある一人の相談に対する正しい答え(誠意のある、理解をした上に存在する答え)を提示することが出来るのかなと思っている。
ぼくは食べ物をシェアするのが好きな理由にそれがあり、振舞うことが好きな理由でもあると最近思っている。人を招き、振舞う。自分の手で作ったものを目の前の誰かに与えることで、ある新しい理解が生まれる。
塩味が効いているなとか、酸っぱいなとかそういうものではなく、もっと根源的な部分での繋がりというか興味というか、人間の奥深くに眠っている何か言葉にすらなっていないものが少し繋がるのだ。
そんなことを考えて、誠意を持って人と話すことが大切だと思うからこそ、安易になんでもかんでもを誰でもに話すということをするべきではないと思うし、言わないことが正しいということもあるのだ。
今日は、なんだかいい話が出来たような気がする。話をする場所というのはとても重要な気がする。場所もそうだけれど、場所を選ぶ際のセンス。今日は、秀逸だったと結果からして思う。あくまで個人的な意見でしかない。少なくとも気がスッキリした。
今、自分の心にある問題と、抱えているのだろう問題の話をして、それがすぐに解決するものではないことはわかっていたけれど、気楽になるということは解決に向ける一歩でもあると思っている。
その後、久しぶりに銀座に来たので、歌舞伎そばでざるかき大盛りを食らう。今日は、気持ちがいいのでざるにする。たった20円しか違わないのだけれど、上にノリが付いているかいないかの違いでしかないのだけれど、ノリがいいとしか言いようがないのである。自分にもっとノリ(リズム)をつけたいということの表れだったのかもしれない。
そんな冗談のようなことが言える間はまだまだ調子よく進むべきだ。
その後、Appleに立ち寄りモニター購入を検討するが、税抜きで15万。まだ必要ないような気もする。金券ショップにて青春18切符を売ろうとするも2日分で2000円と言われたので、あきらめる。それだったら使った方がいい。ぼくには時間があり、英気を養う何かが必要なのである。それは旅行かもしれない、それは家に篭り作品を制作することかもしれないし、それはセックスかもしれない。全てかもしれないし、全てではないかもしれない。誰にもわからない事実なのだ。自分でもわからない、だから何もしないのか、だからたくさんのことをするのか。

近江屋洋菓子店へ行き、ショートケーキを食らう。村上春樹『1Q84』Book1 後編を読み進める。神保町を散策し、源喜堂でwrittenafterwardsの山縣さんと彼のパートナーに遭遇し、立ち話。
榮久庵憲司『道具考』を購入。850円。少し高いけど、とりあえず今はエッセイ集を描き上げるために必要だと思うものは手に入れたい。散歩をして、帰宅。
夜は、家でブリーチーズとオクラのカルボナーラを食らう。疲れていて何も出来ず、食べたのか食べてないのか、すら記憶にない。食べたことは確実ではある。記憶にはあまりない、あるのは空になった食器だけだ。
聖子ちゃんと電話をしていると突然怒られる。陽気すぎて理解できないと言われる。くだらない歌を歌い続けてしまったのか。気分の浮き沈みが激しすぎるのか、「連絡しないで」と言われる。連絡しても返事がないので、とりあえず連絡せずにthe Strokesの2017年のライブをyoutubeで鑑賞。
母親から電話があり、木曜日に日帰りで東京に来るのだという。buikに行ってオーボンビュータンに行って、なんとかに言って、と話していた。夜は何を食べるのだろう。何時の新幹線に乗って来るのだろうか。