2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2019.9.14

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2019.9.14

8時に起床。風邪がまだ治らず。
家から一番近いラーメン屋再来軒で塩ラーメンを食らう。昨日、石井先生に診察してもらう前に食べようかと思ったのだが、定休日だったので今日再度来店。
お店を出る頃には外にも飛び出すほどの大行列になっていた。東京ラーメンってみんな懐かしくって食べたくなるんだろうね。
大学生の頃、茶谷公俊(通称:ちゃっぴ)が住んでいた京都左京区吉田には東京ラーメンを謳うしがないラーメン屋があって足繁く通っていた。お店の名前があったのか、お店の名前が東京ラーメンだったのかは思い出せないが、ラーメン一杯400円で食べられた。「東京ラーメン行こうぜ」とよく言ったものである。ラーメン一杯400円だからよく行っていたのか、それとも味を好んでいたのかそれさえも今ではわからないが、とにかくその名のないラーメン屋が臨時休業が増えるまではよく行っていたように思う。
一時をさかいに、「店主体調不良のため本日休業致します」という張り紙が横開きのスライドドアの窓の部分に貼られることになる。「店主腰痛のため本日休業致します」になったり、「店主歯の治療のため本日休業致します」となったり、とにかく休みが増えだし、ぼくたちとしても店主の体調も不安もあるけれど、400円のラーメンが食べられないということで少々困っていたのである。
ある時、「体調不良の為、当分休みます」という張り紙に変わった。その張り紙は剥がされる事がなく、いつ前を通ってもその張り紙が剥がされる事はなかった。ぼくたちも残念だなと思いながらも、日々の生活が忙しくなりそのまま前すらも通らなくなった。今は、どうなっているのかすらわからない。アルバイトもいなかったし、老夫婦二人で切り盛りされていたのでもうやっぱり張り紙に書かれている通り、体調不良だったのだろう。
それがぼくの東京ラーメンとの出会いである。
用賀でもその東京ラーメンが食べられるというのはぼくにとっては嬉しいのである。東京ラーメンは、醤油ベースで、チャーシュと、メンマとネギだけしか入っていない。潔よい、無防備である。ぼくは、そんなものが好きである。
その後、薬局に行き、葛根湯とポカリスウェットを購入。家に帰り、日記を書く。体調が悪いのでなかなか書き進める事が出来ない。1500字くらいで断念。3000字を書ききるという事がぼくが日々、自分に課している事なのではあるが、仕方ない。
村上春樹『1Q84』『うずまき猫のみつけかた』を読み進める。『うずまき猫のみつけかた』の中で、村上春樹氏も一ヶ月走らなかった事があると書いてあり失礼ながらも少しばかり安心した。マラソンでも歩いたと書いていたし、ぼくが勝手に抱いていた村上春樹氏の「毎日休む事なく走っている」「マラソンは一度も歩いた事がない」というような(どこかで読んだはずなんだけれど、)事は、事実ではないという事だ。そういう言い方をすると村上春樹氏は嘘を付いているのかという話になるけれど、そういう訳ではない。別に嘘でも本当でもどちらでもいい、別にその嘘は誰かに害を与える訳ではない。少しと言ったが、かなり心救われた。
正直なところ、自分が何かを中断している時にそれらは自分の首を絞めるような物事だった。あれだけのことを成し遂げるには継続が大切で、それだけの継続に付随する精神力があるからやっていけるんだ、自分には精神力なんてものが全くないかもしれないと思ってしまっていた。少し気楽になる。
自分は、どこかエクストリームな考えをしてしまうのである、それで自分を苦しめている。例えば、毎日日記を書かないと、憂鬱になったり、自分が思っていることをしなかったり。ゴミが落ちていて、それを拾わないで見過ごす、数歩行ってもそれがまだ気になり、戻って拾う。強迫観念のようなものに囚われてしまうのである。
16時ごろ、かなり絶望的な気分になり、聖子ちゃんに電話をする。誰かと連絡をしていないと自分が社会と繋がっているのかすごく不安になる。
18時頃から、ウディ・アレン監督『Another Woman』を鑑賞。今構想を始めた新しい写真集は、聖子ちゃんから届いた手紙の一文が元になっているのである。”I wonder if a memory is something what i have or what I've lost”というもので、
「想い出とは、自分が持っているものか、それとも自分が失ってきたものか」とでも訳せばいいのだろうか。シンプルだけれど、なかなか味わいがある言葉だ。ぼくもこれを読んで、なんだか考えさせられて、これは次の作品のタイトルにいいんじゃないかと思った。
彼女の手紙には、
「日常を思慮深く考えているかで、毎日ってちょっと面白くなるのかなと思う」
と書いてあった。
で、この言葉について調べていると、実は、これは今夜鑑賞したウディ・アレン監督『Another Woman』からの一節であった。
特にこの映画の中で大切にされている言葉ではないのかもしれないけれど、今のぼくにはすごく直感的にぐさっと刺さる言葉であった。
映画自体は、全編通して、主演ジーナ・ローランズが行動に発言に、洋服の着方に終始男前であった。出演者の洋服の着こなしや、映像の色のトーンといい、おしゃれ映画だと安易にいうべきではないのだろうが、その分類に入れられてもおかしくない映画である。すごく好きな内容ではあるけれど、一言では言えそうにないので、ここではオシャレだったという安易な感想だけ書いておく。
夜になると、不安が襲ってくることもそうだけれど、体調も同時に悪くなる。これは海の波が止まらないのと同じくらいに決まりきったことで、夜になると必ず不安になるし、同時に体調も崩れる。石井先生も夜には不安になるということをおっしゃっていた。友人や人といるとそれは感じないのだという。先生はなんでそんなことまで知っているのだろう、不思議な気分だ。自分の病状は研究に研究を重ねられているのだろう。救われたのは、パニック障害では死なないのだという。ぼくは死ぬのが怖い。
ホットウォーターボトルを用意し、新しく買ったコムデギャルソンシャツのネイビーのカーディガンを着て、布団に潜り込む。やはり体調は悪い。人から連絡がきて返事をするのも面倒になるくらいの体調である。それから、光という光が眩しすぎるので、目を閉じる。不思議である、人と連絡していると安心するのに、人と連絡するのもしんどい、という状況。それから、身体中に帯状疱疹のようなブツブツが出始めている。またストレスなのか、それともただのブツブツだろうか。自分でも最近全てのことにかなり敏感になっているというのは理解しているし、人のことを気にしすぎている事は間違いない。
この日記も自分の心に負担になるのであればやめるべきなんだろうけれど。それでも書くという事は、ここ以外に自分が何か発言する場所を失っているという事だろうか。そうだとすると非常に残念である。ぼくは、やっぱり社会に対して問題定義して生きていきたい。だとすると、強く生きていくしかないのだ。
今は、会社に守られているけれど、社会に出ればもっと厳しいはずである。立場をわきまえずに言葉巧みに嫌味だけをいう人もたくさんいる。そういう人たちが社会で本当に生きているのだろうか。そうは思えない、そういう人たちは会社という守られた場所で、戦っているふりをしている場所でしか生きていないのである。ぼくはそう信じている。
寝転んでいると体が痛いので、何か違う寝方はないものか。苦しみながら眠りにつく。