起きるとペニスにきつく締め付けられたような感覚残っていた。いや、締め付けというか、ギンギンに勃起をしていてそれによってペニスの筋肉から何かを感じているのかもしれない。
夢ではある女性が登場した。しかし、その女性と股間は全く関係ない。彼女が大切にしている繊細な風船のようなもの、少しでもとんがったものが刺さることによって破裂してしまいそうな繊細なもの、だけど柔軟性を持ち合わせているものと彼女の雰囲気とそんな二つのものの間に自分のペニスを挟んだ。物質的にはそこには存在しない二つのものの間にぼくは自分自身のペニスを挟む。簡単にいうと空気と空気の間にペニスを挟んでいたのだ。性行為ではない。神聖であるかと言われるとそうでもなく、一方で俗っぽい訳でもない。セックスではなく、自慰行為でもない。繊細さと雰囲気という二つのものの間にギンギンに勃起したペニスを挟んだだけなのである。
快楽を求めてその間にペニスを挟んだ訳ではなく、自然とそうするべきだと、シンクにたくさんの食器があれば洗うような自然さで、思った訳だ。いや、そうではない。もっとみんなにとって当たり前のこととして、例えば喉が渇いたので水を飲むようなそんな感じだったのだ。しかし、空気を吸うとかとは少し違う。空気は吸うもんである。止めることが出来るが、吸うものだ。
夢精をしたと夜中に目を覚ましたが、朝目覚めるとパンツがカピカピになっているわけでもなく、むしろ何の異常もない。ということは夢精をしたということさえもぼくの夢の中の出来事がだということである。
起きてから、夢のことを記録しようとiPhoneに重要事項のみを書き残す。ある女性が夢に出てきたこと、しかし、その人自体ではなく、彼女の持っている雰囲気と保とうとしている繊細さの間にペニスを挟んだこと、決してそれが性行為ではなかったこと、夢精をしたと思っていたが実際はそうではなかったこと、激しく勃起していたこと。
夢の内容を思い出そうとしていると、ぼくの股間は徐々に落ち着きを取り戻す。朝の勃起は、ぼくに何かを記憶させるためにあったのではないか。ギンギンに勃起して痛みを感じて目覚めるのは相当である。何かその痛みの強さはこの夢を感覚を記憶したいという強い思いなのではないか。それくらいの強い痛みを伴った起床であった。
9時から日記を書く。3000字を書くのに大体1時間くらいを必要としている。とにかく情報の多い鮮明な日記を書くことを心がける。
とてもお腹が痛いので、11時半過ぎバスタブにお湯をためる。家のバスタブに浸かるのはいつぶりか思い出すことができない。もしかするとトイレを燃やしてしまった日以来か、それだと身体が何かを記憶していて拒絶反応のようなものを起こしているのかもしれない。そんな風に考えると自分の身体が記憶することへの恐怖を感じる。頭で記憶すること、心が記憶すること、身体が記憶すること。もちろん頭と心と身体すべてで記憶することがあるのだろうけれど、自分の知らない場所で勝手に身体が何か恐怖を記憶するというのは非常に恐ろしい。自分の存在とは脳と連動しているのだろうか。脳の記憶こそが自分の認識している記憶なのだろうか。
バスタブに浸かりながら、村上春樹『1Q84』読み進める。13時過ぎに、眠くなり出る。ずっと足を曲げた状態だったので、身体が痛い。ぼくも歳だということなのか、それとも単純に身体が弱っているのか。後者だといいんだけれど。むしろ後者じゃないと困る。そう後者じゃないと困るのだ、まだぼくはとし老いる年齢ではない。
お昼に、昨晩レイナさんから頂いた京都菊乃井のにゅうめんを食らう。和紙のような白いパッケージに包まれており、赤と白の紐で縛られている。パッケージを開けてみると、乾燥そうめん、真空パックにされたタイの切り身、乾燥ワカメ、七味唐辛子、液体だしが入っている。ぼくはこの手の簡易麺に少し抵抗があるので、原材料のところを読んでみると、
「この製品には体に悪いものは一切入っておりません」
との記載があった。なんとなく不思議になるも「この製品には体に悪いものは一切入っておりません」その言葉を信じることにする。
お湯を注いで3分というものなのであるが、確かに3分ヌードルの中ではかなりハイクオリティなのだろう。ワカメの香りがかなり強いがそれでもタイはタイらしさを少しは残しているし、麺自体も悪くない。値段がこれで500円くらいなのであればかなり売れそうだなと思ったが、菊乃井、鯛にゅうめんそんなキーワードを頭に浮かべていると500円で済むはずがないと思った。頂き物なので、値段を確認するのは気がひけるので、想像だけで止めておきたい。3分でこれだけのものが食べられるのであれば食べたい人はいそうだけど、ぼくは体調を崩していない限りは食べそうにない。ただ美味しく頂いた。
こうやって人からの頂き物を話のネタにして書くのはすごく難しい。ぼくのこのダイアリーにおける一つのモットーは素直さである。その出来事が事実か事実ではなかったかはどちらでもよく、素直に気を遣わずに包み隠さずに書くというのがここでのモットーである。虚構が書かれていることもある、話をわかりやすくするために少し修正されていることもある、だけれど、そこには素直さが備わっているとぼくは思っている。素直さを書くこと。
16時くらいまで外付けHDDのデータ整理をし、その後Graceと電話をする。彼氏の話、結婚式の話、最近の仕事の話など。相変わらず元気で、2年前と何も変わっていない。定職には付かず、何か常に移動できる状態にしたいがなかなか色々全てが手についていないような、正直自分とも似ているなと思う。お金もないと言っていた。それも前から変わっていない。
僕たちみんな、このまま大人になっていくのだろうか。何も変わってなさすぎて怖くなった。変化がないということは怖いことでもある。着実に進んでいる人たちもいるのだろうか。実感がなさすぎて不安が募るばかりである。40になった頃にまた大きな変化があるのだろうか。自分も含め本人たちは成長していると実感していても周りからみると何の変化もない。否定するわけではなく、僕たちの人生はきっとそんなもんなんだろう。急に大きな家に住むわけでもなく、社長になるわけでもない。小さい頃であれば、久しぶりに会えば、背が伸びていたり、ふくよかになっていたり、大人っぽくなっていたりしたもんだけれど、この歳になると、目に見える変化は少なくなる。内面の成長を大切にしているようにも思う。自分たちで何か目に見える変化を付けていかないことには何も変わらないのだと思う。子供の頃は目まぐるしく環境が変わり、自分たちの見た目が変わったりしていたもんだけれど、最近は何の変化も起きない。ましてや、若い頃は服装でさえよく変わっていたけれど、この歳になるとみんな自分の趣味も大きくは変わらないから服装の変化もない。
Graceと話しているとますます体調が悪くなってきたので外付けHDDの整理を17時半までする。
その後、シドニー・ルメット監督『Dog day adfternoon』を鑑賞して就寝。邦題を『狼たちの午後』。前に一度、聖子ちゃんと観て気に入ったのを覚えている。映像の色合いと、アルパチーノの演技と、登場するキャラクターに滑稽さと優しさ、正義がある社会派映画でぼくは好きである。エルトン・ジョンの名曲Amoreenaから始まるオープニングもかなり気に入っている。そのまま夕食も食べずに朝まで寝る。
起きてから、夢のことを記録しようとiPhoneに重要事項のみを書き残す。ある女性が夢に出てきたこと、しかし、その人自体ではなく、彼女の持っている雰囲気と保とうとしている繊細さの間にペニスを挟んだこと、決してそれが性行為ではなかったこと、夢精をしたと思っていたが実際はそうではなかったこと、激しく勃起していたこと。
夢の内容を思い出そうとしていると、ぼくの股間は徐々に落ち着きを取り戻す。朝の勃起は、ぼくに何かを記憶させるためにあったのではないか。ギンギンに勃起して痛みを感じて目覚めるのは相当である。何かその痛みの強さはこの夢を感覚を記憶したいという強い思いなのではないか。それくらいの強い痛みを伴った起床であった。
9時から日記を書く。3000字を書くのに大体1時間くらいを必要としている。とにかく情報の多い鮮明な日記を書くことを心がける。
とてもお腹が痛いので、11時半過ぎバスタブにお湯をためる。家のバスタブに浸かるのはいつぶりか思い出すことができない。もしかするとトイレを燃やしてしまった日以来か、それだと身体が何かを記憶していて拒絶反応のようなものを起こしているのかもしれない。そんな風に考えると自分の身体が記憶することへの恐怖を感じる。頭で記憶すること、心が記憶すること、身体が記憶すること。もちろん頭と心と身体すべてで記憶することがあるのだろうけれど、自分の知らない場所で勝手に身体が何か恐怖を記憶するというのは非常に恐ろしい。自分の存在とは脳と連動しているのだろうか。脳の記憶こそが自分の認識している記憶なのだろうか。
バスタブに浸かりながら、村上春樹『1Q84』読み進める。13時過ぎに、眠くなり出る。ずっと足を曲げた状態だったので、身体が痛い。ぼくも歳だということなのか、それとも単純に身体が弱っているのか。後者だといいんだけれど。むしろ後者じゃないと困る。そう後者じゃないと困るのだ、まだぼくはとし老いる年齢ではない。
お昼に、昨晩レイナさんから頂いた京都菊乃井のにゅうめんを食らう。和紙のような白いパッケージに包まれており、赤と白の紐で縛られている。パッケージを開けてみると、乾燥そうめん、真空パックにされたタイの切り身、乾燥ワカメ、七味唐辛子、液体だしが入っている。ぼくはこの手の簡易麺に少し抵抗があるので、原材料のところを読んでみると、
「この製品には体に悪いものは一切入っておりません」
との記載があった。なんとなく不思議になるも「この製品には体に悪いものは一切入っておりません」その言葉を信じることにする。
お湯を注いで3分というものなのであるが、確かに3分ヌードルの中ではかなりハイクオリティなのだろう。ワカメの香りがかなり強いがそれでもタイはタイらしさを少しは残しているし、麺自体も悪くない。値段がこれで500円くらいなのであればかなり売れそうだなと思ったが、菊乃井、鯛にゅうめんそんなキーワードを頭に浮かべていると500円で済むはずがないと思った。頂き物なので、値段を確認するのは気がひけるので、想像だけで止めておきたい。3分でこれだけのものが食べられるのであれば食べたい人はいそうだけど、ぼくは体調を崩していない限りは食べそうにない。ただ美味しく頂いた。
こうやって人からの頂き物を話のネタにして書くのはすごく難しい。ぼくのこのダイアリーにおける一つのモットーは素直さである。その出来事が事実か事実ではなかったかはどちらでもよく、素直に気を遣わずに包み隠さずに書くというのがここでのモットーである。虚構が書かれていることもある、話をわかりやすくするために少し修正されていることもある、だけれど、そこには素直さが備わっているとぼくは思っている。素直さを書くこと。
16時くらいまで外付けHDDのデータ整理をし、その後Graceと電話をする。彼氏の話、結婚式の話、最近の仕事の話など。相変わらず元気で、2年前と何も変わっていない。定職には付かず、何か常に移動できる状態にしたいがなかなか色々全てが手についていないような、正直自分とも似ているなと思う。お金もないと言っていた。それも前から変わっていない。
僕たちみんな、このまま大人になっていくのだろうか。何も変わってなさすぎて怖くなった。変化がないということは怖いことでもある。着実に進んでいる人たちもいるのだろうか。実感がなさすぎて不安が募るばかりである。40になった頃にまた大きな変化があるのだろうか。自分も含め本人たちは成長していると実感していても周りからみると何の変化もない。否定するわけではなく、僕たちの人生はきっとそんなもんなんだろう。急に大きな家に住むわけでもなく、社長になるわけでもない。小さい頃であれば、久しぶりに会えば、背が伸びていたり、ふくよかになっていたり、大人っぽくなっていたりしたもんだけれど、この歳になると、目に見える変化は少なくなる。内面の成長を大切にしているようにも思う。自分たちで何か目に見える変化を付けていかないことには何も変わらないのだと思う。子供の頃は目まぐるしく環境が変わり、自分たちの見た目が変わったりしていたもんだけれど、最近は何の変化も起きない。ましてや、若い頃は服装でさえよく変わっていたけれど、この歳になるとみんな自分の趣味も大きくは変わらないから服装の変化もない。
Graceと話しているとますます体調が悪くなってきたので外付けHDDの整理を17時半までする。
その後、シドニー・ルメット監督『Dog day adfternoon』を鑑賞して就寝。邦題を『狼たちの午後』。前に一度、聖子ちゃんと観て気に入ったのを覚えている。映像の色合いと、アルパチーノの演技と、登場するキャラクターに滑稽さと優しさ、正義がある社会派映画でぼくは好きである。エルトン・ジョンの名曲Amoreenaから始まるオープニングもかなり気に入っている。そのまま夕食も食べずに朝まで寝る。