2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2019.9.11

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2019.9.11

7時過ぎに起床。
コーヒーを淹れて、昨晩の残り物のタイカレーを食らう。昨日よりも味が強くなっている。そんなもんだ。
10時に電車に乗り込み、1045分ごろにDSMに到着。ゴロツキみたいな格好をしていると、強く生きるんだという決心が付きそうなものである。自分が何をどうしたいかを明確にすることでぼくと付き合う相手も付き合い易いのだと思う。今日気付いたことではないが。
DSMでパソコンをピックアップ。「体調はどうだ」とか「元気なの?」とかもとてもありがたいのであるが、今日は誰とも話したくないので、抜き足急ぎ足。11時から銀座のApple storeで修理をする。4Fへ案内される。
Macbook本体の故障ではなく、初期化の際にOSをインストールできていなかったことが問題であったようだ。インターネットの環境が良くなかったりするとそのようなことが起きるということであった。なんとなくわかっていたが一安心。思い通りの答えが返ってくると人は安心するのかもしれない。自分はインフルエンザだと思っていても一度病院へ行き、インフルエンザです、と診断されると少し心は軽くなる。そんなものと同じかもしれない。ぼくの今患っているパニック障害も同じだ、自分では不安障害、パニック障害だと思っていたけれど、実際先生に会ってそう診断結果を渡されると少し安心する。ということは、ブランドも同様か。
「長いとインストールするのに3時間頂くことになります。」
ということだったので銀座のシネスウィッチで映画でも観ようと思ったが、時間が合わず。ミカエルアース監督の『アマンダと僕』が1215分から上映だというので、ひとまず観ることを前提に行動し始める。ミカエルアース監督は、この2019年夏ぼくが異状なまでに感情的になってしまった『Ce Sentiment de l”ete』の監督である。913日までの上映だという。今日は11日。多分映画館で見るのは最後のタイミングになりそうである。
青山から移転してきた松栄堂に行き、高級白檀「五山」を購入。銀座ウエストの隣に移転していた。移転してから初めて行った。京都では散々お店の前を通っていたが一度も足を踏み入れたことがない。ずっと買いたいと思っていたものが買えると嬉しいものである。同時にずっとやらないといけないと思っているのは想2019.9.11像を超えて無意識に体か心に負担を与えているということかもしれない。
時計は、1140分を指していたが、お腹は全く空いていない。朝のタイカレーがまだ腹のなかに残っているような感覚。映画でも観るか、でも右手には村上春樹『1Q84』も握り持っているし、映画よりもコーヒーでも飲みながら『1Q84』を読み進めるのも一つの手ではないかなどと思いながら歩いていると、ロシア人youtuberから声をかけられ、動画撮影を手伝う。iPhoneではないスマートフォンを久しぶりに触ったので、なんだか不思議な機械を触っているような、新しい高性能な小型カメラを使っているような感覚に陥る。実際、モニターはとてつもなく綺麗で、動画も滑らかで、動画を撮るのに特化したようなスマートフォンだった。Take1はぼくが機械の使い方をわかっておらず、録画されないまま3分くらい撮ってしまう。Take2は無事に終わる。拳を突き合わせて別れる。
そのせいでというと失礼だけれど、彼のせいでいいと思う、そう彼のせいで映画を見る気分じゃなくなり、Aux Baccanalesへ。ノワゼットを注文し、『1Q84』を読み進める。
すると1250分ごろ連絡が入る。
『お預かりしていたmac bookの受け渡しの準備が整いました。』
3時間もかからないじゃないかと拍子抜け。少ししてからピックアップに行き、DSMへ届ける。これで当分銀座に来る理由がなくなった。次は10月頭だろうか。
その後、銀座駅から日比谷線に乗り、六本木へ。僕は日比谷線が好きである。 中目黒と北千住を繋いでいて、途中にお気に入りの駅があるわけではないのであるが、乗客の生活感が感じられて好きなのである。ぼくが使っている東急系列の田園都市線ほど混むわけでもなく、銀座線ほど気張っているような感じもしない。最近の銀座線はどこかコマーシャル感を感じずにはいられない。昔の銀座線は、電気が落ちたりしていたと村上春樹氏のエッセイか何かで読んだような気もする。そんなことは今やありえない。それから日比谷線の色はグレーで、アルファベットはHである。ぼくは多分何よりそのグレーが好きだ。
六本木駅のA2出口から地上に上がり、Taro Nasuギャラリーでホンマタカシさんの『Looking Through』を鑑賞。世界中のルコルビュジエの建築の窓から見た風景の写真。
「普通に撮ると建築の写真は建築写真になってしまう。どうにかして建築写真ではない建築の写真を撮れないかと考えたときに、窓を撮ってみようと思った。」
隣にあるGallery Signを覗き、バスに乗り渋谷へ。それにしてもみんな、どれだけ(本当に)シャルロットペリアンやルコルビュジエやピエールジャンヌレが好きなんだろうか。最近、どこでも見かけるので、思考が足りていないような気しかしないのだ。
いかにそれらが 素晴らしい建築物だったり、プロダクトであったとしても使用のないところには本質は素材しないと思っている。飾りのためになっていないか、ビジネスのツールとして使用していないか。僕は、簡潔であり、無防備であることを好む。
渋谷へ移動し、Totodoへ行き、ユイさんと待ち合わせる。二子玉川へ行き、Antico coffeeでグラニータ、彼女はカフェオレを注文。ぼくはこのカフェがなんだか好きである、カフェらしいカフェだなと思うのだ。駅前にあり用途が多様である。混んでいて活気がある。誰かに会えそうな気さえする。好きな男性の話をして、少女のようになるユイさんはなんだかかわいいと思った。そのかわいいはどこか小学生の女の子をみているような感覚に近いものだった。年上の女性に子供に向けたかわいいなんていう言葉を使うべきではないのかもしれないが女の子は少女性を持っている方がいいと思う。
買い出しをして帰宅。嵐のような夕立に打たれそうになる。ちょうど駅を出たところで嵐到来。久しぶりにあれほど酷い風と雨だったように思う。風により、雨が地上から空に向けて降っているように見えた。これは誇張でも何でもなく実際に見たのだ。稲妻も音も頭の上を通り抜けるように過ぎ去った。15分くらい。奇妙な夢のような夕立だった。決して嫌いではない。
18時過ぎにレイナさんが手土産を持ってうちに来る。なしと菊乃井さんのにゅうめん。
夜は、みんなで料理をしながらが、フムスとローストベジ、トマトサルサ、アボカド、ピタパンを食らう。笑いのある楽しい夜になった。
レイナさんはNational Standardで働いていた事実に驚く。大学生1,2回生の頃に熱狂していたシーンの人たちである。その頃、僕が昔好きだった女の子はNational Standardの洋服を買い集めていたことを思い出した。
こうやってみんなで料理をして食べて話して過ごす夜はとても楽しい。毎日これでいいのにな。海外の時は毎日こうやって過ごしていたように思うんだけれど。違ったかな。
23時になりみんな突然帰宅。突然の別れはすごくさみしい。聖子ちゃんと少し話をする。