静岡駅から10分ほどのところにある安宿で目覚める。6時過ぎ。一番の安宿なのでベッドが部屋のほとんどのスペースを占め、肘を20回以上壁にぶつけないことにはシャワーも浴びられないようなところ。気持ち程度にテレビと、机と椅子が置かれている。椅子を引っ張り出すとすでにベッドと当たる。一応座ることが出来る程度。
各階の廊下に、ジュースと、アサヒスーパードライの自動販売機が置いてある。唯一、都内の安宿と違うのが、窓の外には隣のビルの壁はなく、山までの街の風景を一望することが出来ることである。
おにぎりのまるしまへ。朝からおでんを食らうなんて、と思っていたけれどそんなに重くはない。おでんは、おにぎりとも井端荒木のような良いバランスを保っているようだ。おでんを5本としゃけと梅のおにぎりを一つずつ食らう。おでんが一本60円で、おにぎりが一つ100円なので、計500円。
隣に座っていた中肉中背の中年男性はおでんを3本だけ食べて出て行った。写真を撮っていたので、旅行者らしいけれど、その感覚に驚いた。
他にも数本だけ食べて出て行く人もいた。イタリア人が駅でエスプレッソをクイッと飲むみたいに駅前でおでんをサクッと食べて出勤するみたいな感覚はぼくにはまだまだ理解できそうもない。
どこかでぼくが静岡に移住したという噂を聞きつけたら、朝にで静岡駅前のおでん屋をのぞいてみてください、そこには、きっと身長168cm痩せ型でヤクルトスワローズのキャップを被った目の細い男性がいると思いますよ。
その土地ではその土地の暮らしがある。
9時半、静岡駅から出ているシャトルバスで日本平ホテルへ行く。身なりのせいか日本平ホテルですか、と確認された。旅行をしているとゴロツキの格好になりがちである。こういう時にブラウスの一枚でもあればなんとなくその場を騙して通り抜けることが出来るのにと思う。ラウンジで一服。
そういえば、数日前、友人ちゃっぴが家に泊まった時に「最近、身なりだけはきちんとしている。」と言っていた。仕事をしていないこともあって身なりさえきれいにしておけば社会から除け者にされないのだそう。ぼくは最近、出来るだけ汚い靴を履いて生きていた。それは、自分が洋服を扱う人間になってしまっていることへの反抗で、決してゴロツキの精神を忘れたことはないよという態度表明でもあった。
しかし、一歩日常から外れて路上の石ころになった時に、一秒でゴロツキに戻れるのはきっと元来自分の精神性がゴロツキだからなんだろう。そして、ゴロツキに戻った瞬間、みんなからゴロツキに対する目線をもらうことになる。ぼくは、会社員だぞと言いたくなるが、今は休職をしているのだ。仕事を休んで守られた状態でごろついているのだ。国民年金も健康保険も、所得税も、住民税も雇用保険料も支払っているにも関わらず。
真のゴロツキからは、”ごろついてる風”の冠を被せられ、一般市民からはゴロツキという称号を与えられる。そんな辛い立場でごろついているのだ。
日本平ホテルのラウンジから見る富士山は、雲に覆われていてなんともいえない雰囲気を持っている。昨日、富士山で20代女性が落石でなくなったとテレビのニュースキャスターが読み上げていたが、この距離から見る富士山も同様に恐れを持っているように見えた。
日本人は、青色、藍色の判断がよく出来る人種だという話を昔パリにいる時に聞いたことがあるが、この富士山と富士山にかかる雲と海と遠くに見える山を見ているとなんとなく理解することが出来た。全てはネイビーで統一され、薄いものからとても濃いものまで様々である。雲の動きと光の角度だけで一秒毎に変化する色と形にぼくは目を離すことができなかった。
コーヒーとショートケーキを食い、シャトルバスで再度静岡駅に。鰻を食い、秋野不矩美術館に向かおうとするも思いの外時間がかかるようで閉館に間に合いそうにないので、全ての予定を諦めて、伊豆北川の黒根岩温泉へ向かう。
22歳の時に一度きたっきりでそれ以来の再訪だった。駅で降りたのはぼくたった一人。駅は無人で、5分ほど歩いても一人にも遭遇しない。唯一、子猫に遭遇。しかし、ぼくは茶系の猫があまり好きではない。どう見ても野良猫に見えてしまう。
特に子猫が一匹で歩いているのを見ると、ますます親はどこだとか、痩せすぎているんじゃないかとか、肋骨付近の肉つきとかが気になってしまう。
その後、数人の街の漁師を発見し、旅館に泊まっている楽しそうな家族連れ、友人連れのグループを横目に温泉へ向かう。
この温泉は、海抜0m。温泉に浸かりながら海を眺める贅沢をしていると自分の悩みなんて、と思うかと思いきややはり悩みは悩みとして心に残り、身体と心の一部は心地よくなる。確かにそうだよな、心地よくなって自分の悩みがスッキリするのであれば今頃各温泉街は、大にぎわいである。
太平洋と曇り空、境界線の上にある船舶が消えたり浮かび上がったりするのを眺めながら30分ほど過ごす。「アメリカを眺めながら」みたいな立て看板があったけれど、それほどアメリカへの憧れがない自分にとってはあまりピンとこず、F-22のような航空機が四機飛んで行く姿を見て、不思議な気持ちになる。これがアメリカを眺めながらということなのだろう。
18時半頃の電車で熱海へ。熱海で乗り換えの際に、何をするのでもなく街をふらっとし熱海独特の空気を感じ、再度電車に乗り込み品川へ。
熱海から品川まで1時間半で到着するのには驚いた。熱海から出勤している人もいるだろうな。しかし、機会さえあれば青春18切符を利用しているぼくは事あるごとに(事がない時にさえ)熱海へ足を運んでいる。熱海には生活は感じられない、そこにあるのは過去の栄光にしがみ付きそのまま夢と化した幻影都市の有様と、今夜のセックスのことしか頭にないだろう髪を濡らした若い男女グループの姿だけである。ここに来るたびにそう思うのである。
23時ごろ家に到着。疲れすぎている。
各階の廊下に、ジュースと、アサヒスーパードライの自動販売機が置いてある。唯一、都内の安宿と違うのが、窓の外には隣のビルの壁はなく、山までの街の風景を一望することが出来ることである。
おにぎりのまるしまへ。朝からおでんを食らうなんて、と思っていたけれどそんなに重くはない。おでんは、おにぎりとも井端荒木のような良いバランスを保っているようだ。おでんを5本としゃけと梅のおにぎりを一つずつ食らう。おでんが一本60円で、おにぎりが一つ100円なので、計500円。
隣に座っていた中肉中背の中年男性はおでんを3本だけ食べて出て行った。写真を撮っていたので、旅行者らしいけれど、その感覚に驚いた。
他にも数本だけ食べて出て行く人もいた。イタリア人が駅でエスプレッソをクイッと飲むみたいに駅前でおでんをサクッと食べて出勤するみたいな感覚はぼくにはまだまだ理解できそうもない。
どこかでぼくが静岡に移住したという噂を聞きつけたら、朝にで静岡駅前のおでん屋をのぞいてみてください、そこには、きっと身長168cm痩せ型でヤクルトスワローズのキャップを被った目の細い男性がいると思いますよ。
その土地ではその土地の暮らしがある。
9時半、静岡駅から出ているシャトルバスで日本平ホテルへ行く。身なりのせいか日本平ホテルですか、と確認された。旅行をしているとゴロツキの格好になりがちである。こういう時にブラウスの一枚でもあればなんとなくその場を騙して通り抜けることが出来るのにと思う。ラウンジで一服。
そういえば、数日前、友人ちゃっぴが家に泊まった時に「最近、身なりだけはきちんとしている。」と言っていた。仕事をしていないこともあって身なりさえきれいにしておけば社会から除け者にされないのだそう。ぼくは最近、出来るだけ汚い靴を履いて生きていた。それは、自分が洋服を扱う人間になってしまっていることへの反抗で、決してゴロツキの精神を忘れたことはないよという態度表明でもあった。
しかし、一歩日常から外れて路上の石ころになった時に、一秒でゴロツキに戻れるのはきっと元来自分の精神性がゴロツキだからなんだろう。そして、ゴロツキに戻った瞬間、みんなからゴロツキに対する目線をもらうことになる。ぼくは、会社員だぞと言いたくなるが、今は休職をしているのだ。仕事を休んで守られた状態でごろついているのだ。国民年金も健康保険も、所得税も、住民税も雇用保険料も支払っているにも関わらず。
真のゴロツキからは、”ごろついてる風”の冠を被せられ、一般市民からはゴロツキという称号を与えられる。そんな辛い立場でごろついているのだ。
日本平ホテルのラウンジから見る富士山は、雲に覆われていてなんともいえない雰囲気を持っている。昨日、富士山で20代女性が落石でなくなったとテレビのニュースキャスターが読み上げていたが、この距離から見る富士山も同様に恐れを持っているように見えた。
日本人は、青色、藍色の判断がよく出来る人種だという話を昔パリにいる時に聞いたことがあるが、この富士山と富士山にかかる雲と海と遠くに見える山を見ているとなんとなく理解することが出来た。全てはネイビーで統一され、薄いものからとても濃いものまで様々である。雲の動きと光の角度だけで一秒毎に変化する色と形にぼくは目を離すことができなかった。
コーヒーとショートケーキを食い、シャトルバスで再度静岡駅に。鰻を食い、秋野不矩美術館に向かおうとするも思いの外時間がかかるようで閉館に間に合いそうにないので、全ての予定を諦めて、伊豆北川の黒根岩温泉へ向かう。
22歳の時に一度きたっきりでそれ以来の再訪だった。駅で降りたのはぼくたった一人。駅は無人で、5分ほど歩いても一人にも遭遇しない。唯一、子猫に遭遇。しかし、ぼくは茶系の猫があまり好きではない。どう見ても野良猫に見えてしまう。
特に子猫が一匹で歩いているのを見ると、ますます親はどこだとか、痩せすぎているんじゃないかとか、肋骨付近の肉つきとかが気になってしまう。
その後、数人の街の漁師を発見し、旅館に泊まっている楽しそうな家族連れ、友人連れのグループを横目に温泉へ向かう。
この温泉は、海抜0m。温泉に浸かりながら海を眺める贅沢をしていると自分の悩みなんて、と思うかと思いきややはり悩みは悩みとして心に残り、身体と心の一部は心地よくなる。確かにそうだよな、心地よくなって自分の悩みがスッキリするのであれば今頃各温泉街は、大にぎわいである。
太平洋と曇り空、境界線の上にある船舶が消えたり浮かび上がったりするのを眺めながら30分ほど過ごす。「アメリカを眺めながら」みたいな立て看板があったけれど、それほどアメリカへの憧れがない自分にとってはあまりピンとこず、F-22のような航空機が四機飛んで行く姿を見て、不思議な気持ちになる。これがアメリカを眺めながらということなのだろう。
18時半頃の電車で熱海へ。熱海で乗り換えの際に、何をするのでもなく街をふらっとし熱海独特の空気を感じ、再度電車に乗り込み品川へ。
熱海から品川まで1時間半で到着するのには驚いた。熱海から出勤している人もいるだろうな。しかし、機会さえあれば青春18切符を利用しているぼくは事あるごとに(事がない時にさえ)熱海へ足を運んでいる。熱海には生活は感じられない、そこにあるのは過去の栄光にしがみ付きそのまま夢と化した幻影都市の有様と、今夜のセックスのことしか頭にないだろう髪を濡らした若い男女グループの姿だけである。ここに来るたびにそう思うのである。
23時ごろ家に到着。疲れすぎている。