8時に家を出て、渋谷のみどりの窓口で青春18切符を購入。
品川へ行き、東海道線熱海行きに乗り込む。人身事故で電車が動か ない、普段地下鉄に乗っているとあまり起きないことがJRに乗る と起きて、ぼくはもうすでに日々の生活から外れた気分になる。DEFの学生バスケットボールチームの団体が乗り込んで来て、電車が動かないということについて情報共有しているようだった。ぼくはあまりDEFの人たちと関わりを持ったことがないからその光景に異様さを感じてしまう。振替輸送車に乗ろうとするサラリーマンたちが足早に降車して行く姿も、自分の生活の中にあるような気はしなかった。
数分後に動き出し、振替輸送車よりもこっちの電車の方が乗車率も低く、快適だろうなと思ってしまった。DEFの学生たちが楽しそうにおしゃべりをしている。少しばかり興味を持って観察していたが、一般的な学生と何も変わらないくらい元気でおしゃべりだ。おしゃべりというのは、手の動きの速さと笑い声のリズムで判断しただけだけれど、おしゃべりそうな顔をしていた。おしゃべり顔というのは、耳が聞こえないということとは、関連がないのだろう。沼津に到着。ひとまず、コーヒーを飲もうとしていたが、歩き回ってみても駅前のドトールしかコーヒーが飲めそうなところはなく、ドトールに入る。ト ーストとコーヒー。何をしようかと考えることも大切だけれど、気分に合わせて動くのも大事だと思う。
三重に住んでいる仲がいいかはわからないけれど、ぼくの大切な友人めーちゃんに連絡を入れる。そもそも連絡先は合っているのだろうか。数年前に彼女が結婚してからはあまり連絡を取っていないように思う。
熱海を越え、清水に到着。世界遺産の三保の松原へ向かう。清水駅前から遊覧船に乗り、三保へ。遊覧船で甲板席に着く。前に双子(年子かもしれない)の女の子を抱えた夫婦。男性はこんがりと日焼けをしていて、きっと屋外での仕事が多いのだろう、娘を抱える腕の筋肉もマッチョではないが筋がきれいに出ている。奥さんは、水色のワンピースに白いカーディガンを羽織っている。髪は黒髪で、一つに縛っている。肌は真っ白で太陽に当たることを出来るだけ避けて生きているような雰囲気である。物思いに耽ているような表情を作り、まぶたが少し閉じて俯き加減である。風で前髪が揺れるのを何度も何度もイラつきもせずに耳にかけ直し、その度に遠くの方を見つめていた。彼女が遠くを見るたびに彼の方も同じ方向に目線を向けた。
時折、抱えられて眠っている娘の髪を撫でている。ベビーカーも何もないので、きっと4歳くらいなのだろうけれど、髪を撫でる母の手は、生まれたての赤ちゃんを撫でるときと同じくらい優しさに溢れているように見えた。
ぼくは、この奥さんのことをすごくきれいだと思った。旦那さんともそれほど言葉を交わすこともなく、とにかく娘を抱きかかえて、目的地までの時間を、潮風と決して美しいとは言えない風景と同化しようとしていた。少なくともぼくにはそう感じた。
決して、彼女単体で美しいというわけではなく、娘たちや隣にいる旦那さん、甲板の白、潮風、太陽の光と差し込む角度、そしてぼくの感情。少なくとも平日の14時に仕事を休んでここで船に乗ってるぼくからの異様さというものが出ていたに違いない。
彼のこんがりと焼けた肌や、娘たちの髪も、そこにいた、またはあった全ての関係性が彼女の美しさだったのである。もしかすると、単純に彼女は清水港から遊覧船に乗るのには勿体無いほど美少女だったのかもしれないが。
写真を撮りたいと思ったが、この空気を崩したくないと思い、撮らなかった。ぼくが、人の写真を撮らないのは、人がカメラを向けられるとその空気は一変すると思っているからだ。カメラを向けられていることを感じた時点でその場にある空気は、変化する。ぼくが写真に撮りたいのは、今ここにある感情と空気なのである。ぼくが撮りたいのは、繊細さである。ビジュアル的な繊細ではなく、繊細な感情や空気なのである。
それに付随してオブジェクトが存在する。決してオブジェクトを撮りたいとは思わない。もちろん、オブジェクトを撮ることもある。
そこには、ぼくのエゴは存在せず、この美しい状況(ここでは、感情や空気などの総体として状況という言葉に当てかえる)を誰かの手によってここにいない人に共有したいという思いだけなのである。それをするのは自分でもいいし、別に他の誰かでもいいのである。しかし、自分が感じているそれをきちんと共有したいと思う。
ぼくは、決して自分の欲望のために写真を撮りたいとは思わない、「カッコいい雰囲気を届けるのだ」とは思うがそれは自分でなきゃいけないとは思うことはない。自分しかそこにいないから、自分しかこれを感じていないから、結局のところ自分がやっているだけである。
17時ごろまで三保の松原で座って海を眺める。色々なことを考えていたけれど、全て海風とともに飛んで行ったとロマンチックなことを言いたいけれど、そんなこともなく、ただただ少しスッキリする。長い海辺(ビーチではない)はいいな。境界線の曖昧さの中にある強さが好きである。特に曇りの時の境界線がとても好きだ。
どんよりとした青い空と淡い青色の海の間にはっきりと容赦のないまっすぐなライン。潔く、そしてどれだけ見つめても、曲がって欲しいと願っても曲がってくれない頑固さ。曖昧さの中にある危険なまでの強度がぼくが惹かれる境界線の魅力である。
その後、少し聖子ちゃんと電話して清水駅行きのバスに乗り込む。
日本平ホテルのラウンジでも行けばという話になり、向かおうとす るも時間が間に合わず、それならいっそのこと一泊して明日行くこ とに。静岡駅前のホテルを予約。
18時半ごろチェックインを済ませて、シャワーを浴びてテレビを 観る。ホテルでテレビを観ることがぼくの趣味の一つだと思う。
20時頃ホテルを出て、うなぎ 清むらへ行く。扉を開けるとステテコ姿のおじいさんおばあさんが 寝転がってテレビを観ており、おじいさんはいびきをかいていた。 5秒くらい動けず。
鰻屋はどこも早く閉まっているので、大衆居酒屋多可能へ。大入り満席である。にぎやかな店の片隅で、テレビを見ながらカンパチのお刺身とアジフライともろきゅうを食らう。
少し街中を散歩をして、(これもぼくの趣味の一つである、知らない街の夜の繁華街をあてもなく歩く)ホテルに戻りくだらないテレビを見ながら就寝。
せっかくの休みなんだ、ぼくの自由にさせてくれ。
品川へ行き、東海道線熱海行きに乗り込む。人身事故で電車が動か
数分後に動き出し、振替輸送車よりもこっちの電車の方が乗車率も低く、快適だろうなと思ってしまった。DEFの学生たちが楽しそうにおしゃべりをしている。少しばかり興味を持って観察していたが、一般的な学生と何も変わらないくらい元気でおしゃべりだ。おしゃべりというのは、手の動きの速さと笑い声のリズムで判断しただけだけれど、おしゃべりそうな顔をしていた。おしゃべり顔というのは、耳が聞こえないということとは、関連がないのだろう。沼津に到着。ひとまず、コーヒーを飲もうとしていたが、歩き回ってみても駅前のドトールしかコーヒーが飲めそうなところはなく、ドトールに入る。ト
三重に住んでいる仲がいいかはわからないけれど、ぼくの大切な友人めーちゃんに連絡を入れる。そもそも連絡先は合っているのだろうか。数年前に彼女が結婚してからはあまり連絡を取っていないように思う。
熱海を越え、清水に到着。世界遺産の三保の松原へ向かう。清水駅前から遊覧船に乗り、三保へ。遊覧船で甲板席に着く。前に双子(年子かもしれない)の女の子を抱えた夫婦。男性はこんがりと日焼けをしていて、きっと屋外での仕事が多いのだろう、娘を抱える腕の筋肉もマッチョではないが筋がきれいに出ている。奥さんは、水色のワンピースに白いカーディガンを羽織っている。髪は黒髪で、一つに縛っている。肌は真っ白で太陽に当たることを出来るだけ避けて生きているような雰囲気である。物思いに耽ているような表情を作り、まぶたが少し閉じて俯き加減である。風で前髪が揺れるのを何度も何度もイラつきもせずに耳にかけ直し、その度に遠くの方を見つめていた。彼女が遠くを見るたびに彼の方も同じ方向に目線を向けた。
時折、抱えられて眠っている娘の髪を撫でている。ベビーカーも何もないので、きっと4歳くらいなのだろうけれど、髪を撫でる母の手は、生まれたての赤ちゃんを撫でるときと同じくらい優しさに溢れているように見えた。
ぼくは、この奥さんのことをすごくきれいだと思った。旦那さんともそれほど言葉を交わすこともなく、とにかく娘を抱きかかえて、目的地までの時間を、潮風と決して美しいとは言えない風景と同化しようとしていた。少なくともぼくにはそう感じた。
決して、彼女単体で美しいというわけではなく、娘たちや隣にいる旦那さん、甲板の白、潮風、太陽の光と差し込む角度、そしてぼくの感情。少なくとも平日の14時に仕事を休んでここで船に乗ってるぼくからの異様さというものが出ていたに違いない。
彼のこんがりと焼けた肌や、娘たちの髪も、そこにいた、またはあった全ての関係性が彼女の美しさだったのである。もしかすると、単純に彼女は清水港から遊覧船に乗るのには勿体無いほど美少女だったのかもしれないが。
写真を撮りたいと思ったが、この空気を崩したくないと思い、撮らなかった。ぼくが、人の写真を撮らないのは、人がカメラを向けられるとその空気は一変すると思っているからだ。カメラを向けられていることを感じた時点でその場にある空気は、変化する。ぼくが写真に撮りたいのは、今ここにある感情と空気なのである。ぼくが撮りたいのは、繊細さである。ビジュアル的な繊細ではなく、繊細な感情や空気なのである。
それに付随してオブジェクトが存在する。決してオブジェクトを撮りたいとは思わない。もちろん、オブジェクトを撮ることもある。
そこには、ぼくのエゴは存在せず、この美しい状況(ここでは、感情や空気などの総体として状況という言葉に当てかえる)を誰かの手によってここにいない人に共有したいという思いだけなのである。それをするのは自分でもいいし、別に他の誰かでもいいのである。しかし、自分が感じているそれをきちんと共有したいと思う。
ぼくは、決して自分の欲望のために写真を撮りたいとは思わない、「カッコいい雰囲気を届けるのだ」とは思うがそれは自分でなきゃいけないとは思うことはない。自分しかそこにいないから、自分しかこれを感じていないから、結局のところ自分がやっているだけである。
17時ごろまで三保の松原で座って海を眺める。色々なことを考えていたけれど、全て海風とともに飛んで行ったとロマンチックなことを言いたいけれど、そんなこともなく、ただただ少しスッキリする。長い海辺(ビーチではない)はいいな。境界線の曖昧さの中にある強さが好きである。特に曇りの時の境界線がとても好きだ。
どんよりとした青い空と淡い青色の海の間にはっきりと容赦のないまっすぐなライン。潔く、そしてどれだけ見つめても、曲がって欲しいと願っても曲がってくれない頑固さ。曖昧さの中にある危険なまでの強度がぼくが惹かれる境界線の魅力である。
その後、少し聖子ちゃんと電話して清水駅行きのバスに乗り込む。
日本平ホテルのラウンジでも行けばという話になり、向かおうとす
18時半ごろチェックインを済ませて、シャワーを浴びてテレビを
20時頃ホテルを出て、うなぎ 清むらへ行く。扉を開けるとステテコ姿のおじいさんおばあさんが
鰻屋はどこも早く閉まっているので、大衆居酒屋多可能へ。大入り満席である。にぎやかな店の片隅で、テレビを見ながらカンパチのお刺身とアジフライともろきゅうを食らう。
少し街中を散歩をして、(これもぼくの趣味の一つである、知らない街の夜の繁華街をあてもなく歩く)ホテルに戻りくだらないテレビを見ながら就寝。
せっかくの休みなんだ、ぼくの自由にさせてくれ。