2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2019.8.28

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2019.8.28

朝6時半過ぎに起床。腰と足に筋肉痛を感じる。バックパックを背負って一日中歩いてたのだから仕方ないか。それくらいの筋肉痛があってこそ自分はどこか違うところで歩き回っていたのだということを実感できるというもんだろう。
コーヒーを淹れ、溜まっている洗濯物をコインランドリーに持っていく。フィルター用のコーヒー豆が切れているのでエスプレッソ豆を使ってフィルターコーヒーを淹れる。ぼくは、繊細で大雑把なのだ。
9時から日記を書く。以前までは、いろいろなルールを決めて日記を書いていたのだけれど、最近そのルールを守れなくなった。やることを増やしすぎている気がする。出来るだけシンプルに物事を進めるのがぼくのするべき方法だと思う。自分でもたくさんのことを一気にこなす事が得意ではないことはこの歳くらいになるとわかってきた。
昨日の夕方、黒根岩温泉につかっているととふつふつと何か自分の欲のようなものが心の底の方から溢れ出てきて、自分のクリエイションをしたい、文章を書こうと力が入った。
自分は、得意不得意はあるにしろ、何か制作活動をすることによって満たされる人間である。それを発表するかしないかとか、大きものだとか小さいものだとか、そういうことを別としてぼくは何か自分の考えた、考えていることを人にしっかりと共有したいと思っている。自分のエゴよりも社会のためになる事が正しいと思っている。社会のためになる事ってなんだろう。そんなことはなかなかわからないが、誠実に物事を考え自分なりの答えを出す事、たまには自分が犠牲になる事、社会に良い事だろうと願って行う事が大前提として大切だと思う。思考がない、行動にはぼくは魅力を感じていない。
社会とは人の集合体だから結局は人に良い事なんだろう。しかし、いいことってなんなんだろうな。
10時過ぎ、一本堂に食パンを買いにいく。こうやって夏になってから食パンを買っていなかったので、普段の自分に戻れたような気がして心が踊る。家に帰って、ゆで卵とトースト。
12時過ぎくらいまで作業をし、部屋の片付けも済まし、さらにエッセイ用の文章の添削。フィジーに住んでいた2012年に書いたエッセイを書き直す。原型を留めたまま、説明を増やし、かたち作る。しかし、この作業はすごく難しい。長くすると最初のソリッドな印象は消え、一方で長くないと説明不足感は否めない。また、後日添削しよう。
15時過ぎ頃、家を出て、バゲットを持って、同僚Jenちゃんとその彼Kenくんの家へ向かう。阿佐ヶ谷在住。
Kenくんは、京都出身のフリーランサーだから勝手に親近感を感じている。趣味も方法も全然違うのだろうけれど、どこか心の奥の方で同じものを持っているように感じられる人間の一人。話したこともない頃からそう感じているのだから、なんでか自分でも不思議である。彼は、柔らかさと強度を持ち合わせている。自分もそんな風に飄々と生きていたはずだけれど、今の自分はどうだろうか。と思わされた。何かを解決するわけではないけれど、同じような態度表明をしている人間がいるのは心強い。
ぼくのことを繊細で大雑把な人だと言っていたのが、なんだか印象的だった。自分でもそう思う節がある。
彼らの出会いを教えてもらった。メルボルンに住んでた高校生のJenちゃんが高校ロボット選手権の世界チャンピオンになった上海在住Kenくんを新聞の紙面上で見つけて、「なんて面白そうな人」と感じて、SNSで探し当て連絡したのだという。やっぱり面白いカップルはこんな風に独自のストーリーを持っている。大学の友人だったとか、そういう理由は別に否定しないし、(とかいう自分も聖子ちゃんと同じ大学である。)付き合うということ、一緒にいるということに何か独自のストーリーを持ちたい。人間関係、それは恋愛に限らず全ての人間関係は、ストーリーがあるのである。ぼくは、そんなストーリーをしっかりと作っていきたい。仲のいい友人との最初の出会いというのは割と覚えているものである。ぼくと聖子ちゃんのケースだと、ぼくがちょうどフィジーへ行く前、2012年の夏である。まだ付き合ってもないのに海外に一緒に住もうと航空券をプレゼントしたことで付き合いが始まった。金曜日だったかな、仕事場にお腹が痛いと嘘をついてもらい、一緒に東京へ行った。ぼくは、コンタクトと本を三冊、漢方しか持っていなかった。着替えも何もなしに、前日から遊んでいた聖子ちゃんをそのまま新幹線に連れ込んだ。そんなジョークに本気で乗ってくれる気合いの入った女の子はいないと思った。それがやはり決め手である。それだから今でも一緒に入れるのだろう。あの経験がないとぼくたちは今は一緒にいない。それくらい鮮明に強く覚えている。
そんな聖子ちゃんと一緒にいないだけで精神の乱れがある。彼女は、9月末にコペンハーゲンを一度離れる予定だ。アントワープに行き、インターンシップをすることが決まった。素晴らしすぎる、こんなに自分のことのように嬉しいことがあるのだろうか。それを聞くと経済的な安定よりも自分のしたいことをしている、出来るという環境の安定(そこには経済的な安定という部分も含まれるかもしれないのだけれど、)がどれほど大切なのかと思わされる。


Kenさん、Jenちゃんの家を23時過ぎに出て帰宅。その後、連絡が来ていた渡邊ユイさんと電話で話す。ロンドンから帰国してセンチメンタルなのだという。仕事の相談というか、こう考えているということを伝える、信頼出来る同僚である。いつの間にかぼくにも数人のいい同僚がいることに気付く。自分は制作がしたい、制作すること(または制作しようと模索、考えること)で自分の心の安定を保っている人間なのだと改めて気付かされる。だったらそれを軸にしないとダメだよと言われる。確かにそうだ。