2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2019.4.10

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2019.4.10

朝起きた時には、彼女はもういなかった。
という言い方は全然正しくなくて、もう既に朝起きたら彼女がいないことは知っていたし、そうなることを僕自身も知った上で眠りについたはずだった。
なのにも関わらず、そう感じたのは、朝起きると彼女がいつも隣にいて、目覚めたらラジオをInter FMを合わせて、ブリティッシュ訛りの英語を聞きながら布団から出る。コーヒーを淹れて、トーストを焼く。というのが僕たちの毎朝であった。仕事があるとかないとか関係なく7時前後には起き、それらをイチローが打席に入って行う行為のように当たり前に行なっていた。
今日は、起きたら一人で、昨晩はシャワーすらも浴びずに寝てしまったので、湯船にお湯を貯め、風呂に浸かる。
昨日と打って変わって大雨なので、窓の外は真っ白である。昨日だけ快晴だったのは、僕と聖子ちゃんのためだったのではないかと思わされるほどの快晴だったし、大雨だった。
11-DSM
2Fに移動してから日々の時間が早く感じている。休憩も心を落ち着かせる時間もなく、店頭作業以外の業務もなかなか出来ないのが現状である。新しいことはいつだって慣れるのに時間がかかる。
朝一とか、夜暗くなった時に、聖子ちゃんと一年も一緒に住めないのかと思うと気が重くなる。家に帰って殺風景な部屋を見ると寂しくなるし、この家が自分の家ではなく、気付けば二人の家になっていたんだなということを実感する。
仕事前とか終わりの時間の過ごし方、休みの時間の過ごし方も見つけないとこのままでは寂しい日々しか待ち受けていない。二人でいる時は、一人になればこういうことをしたいとか、休みの日に一人になったら忙しくしていたのだけれど、ずっと一人のせいか、なかなか心が踊らないのだ。
挙げ句の果てには、家の鍵を職場に忘れ、24時前にお店に戻り、(ラッキーなことにアルドさんが仕事中であったので、鍵を探してくれた)家には終電で帰宅。湯船に浸かり、2時頃就寝。人生で一度たりとも鍵なんて忘れたことがなかった。
こんなことが起きるということは、自分の心と体が動揺しているということだろうか。