2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2011.12.14

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2011.12.14


高城剛「高城剛と未来を創る10人 対話から見えた、その先の未来」読了。高城剛の顔写真の胡散臭さが秀逸。ギャルから元AV女優から流行のアーティストまで幅広く対談しているのでいろんな視点があって面白かった。高城剛のblogにも書いているがテーマは「システムからの脱却」。やはり脱企業、脱政府ということ。主導権を個人に引き戻すということだと思う。そのためには野宿も海外に行くことも自分で畑することもソーラーパネルで電気作ってみることもしてみる。海外行くのも海泳いで行くか!新島襄より垂水ゲンよりアバンギャルドな方法だ。しかし、それにしてもこの本は紙がダメ。ジャンブとか週刊系雑誌と同じような紙質で、ぼくの買う気にならないきらいな紙です。アスキーの対談を本にしたからか、出版はアスキーだからか。でも、買いましょう。
本の中に、「ケータイがない時代は、好きな女の子を誘うにも父親というファイヤーウォールがあって、それによって礼儀を学ぶ体験する場があったのだが、ケータイで直接連絡できるようになったことにより礼儀を学ぶ場所がなくなった。」なるほど。しかし、そんなこと今のぼくが考えることなのかとふと思う。ぼくは、まず自分が何で世の中においてどんな存在か知らなければならない。

大学の学科の友人で京大で美学を研究している宇佐美くんとcafeする。
無知な教師ジャコトとランシエールについて話を聞く。すごく面白くてなんだか今ぼくが気になっている所とすごくリンクした。全然違うことしてるように見えても繋がるなあ。ぼくの思考が無理矢理繋げてるのか。昔、永積タカシがある雑誌で「音楽の聴き方は自由だ、お客さんが好きに踊っていてみんな動きが違うの。それがすごくいい」と言っていた。あの頃のぼくにはすごく衝撃的でその考えが大好きで、そうやっていままでやってきたのだけれど、ジャコトがいう知性の解放にすごく似ているなあと思っている。永積タカシも音楽を投げ迷路の入り口まで観客を連れて行き、そこからは「こうやって乗れよ」とか「こうやって踊れよ」「こうやって首振れよ」みたいなことは言わない。ある種、迷路の中で考えろ感じろということなんだろう。
ジャコトよりもランシエールよりも宇佐美くんが院生っぽくなってたことがもっと面白かった。
夜、中高大の友人いまちゅーと少しだけcafeする。面白いことたくさん教えてもらう。すごいなあ、ぼくは勉強不足だなあと実感。
無知さを知れた一日。純平宅でおかしな世の中について白熱教室ばりに討論しながら寝る。