ソファでふて寝したので、朝聖子ちゃんのコーヒーの香りで起きた。目覚めが黒く艶やかに光るほどの深煎りコーヒーの香りである、そんな幸せなことはない。
お互いに一晩寝ればなんとかもとの生活に戻ろうという決意がつく、もしくは戻るしか選択肢がないということに気付かされるのか、いつもは大体どんな理由であれぼくはめんどくさくなるので、すぐ謝ったり何もなかったかのように話しかけたりするのだが、今日は珍しく聖子ちゃんからコーヒーを飲むかと頭まで被ったブランケット越しに声をかけてきた。多分一緒に住んでもう14年弱になるが、聖子ちゃんから和解のための行動を起こしたのは初めてではないだろうか。
大人になると大なり小なりみんなそれぞれに人に言えない秘密を抱えているのは当たり前だと昨日の映画でも言っていたが、本当にそうだろうか。ぼくは本当の3年くらい前までは誰も秘密なんて持つべきではなく、秘密なんてものが存在する社会があるから世界は美しくないのだと思っていた。ぼくは、多くを包み隠さずにここに書けないことは現実にもしないような人生を送ってきたつもりだった。
それでもやはり年齢を重ねる中で言いたくないことも言えないことも言うべきでないことも増えてきた、いや一つまた一つと貯まってきたというのが正しいかもしれないが、それが事実である。今となってはなんでも話せるような家族や友人はぼくにはいないし、もしぼくがある数少ない親友と言えるような人にどれだけ心を許しているとしても、自分の口からそのことを話し始めることで、それが現実世界に飛び出して実体を伴ってしまうのではないか、と考えるのだ。ぼくが自分の口から語り始めないことは、ある種ぼくの身体のどこかにいるその実体を伴わない秘密と実体しかない現実との間において、とてつもなく高い防波堤になり、ぼくの口から放たないことでそれが現実に起きていることではない、現実で起きたことではないことにできるのではないかと考えるのである。ぼくたち、いや独立した個々人は、その防波堤になるだけの力を備えているし、自制や、時に抑圧のような暴力的なやり方を使ってでも自分が最後の壁となることができるのだ、とぼくは信じている。それは、もしぼくたちが戦場に行っても、個々人がたとえ銃を手に自分の意思とは反して銃を持ったとしても最後の最後までぼくたちはその引き金をひかない権利を有しているのと同じである。その一点において人間には完全な自由を有する、社会や権力に対して大きな壁となり得るのだ。少々大袈裟だが同様に、ぼくが目の当たりにした秘密にしなければならないあれや、ぼくが感じた受け取った秘密にするべきそれは、ぼくという一人の独立した個人の自制や、我慢によって強く抑圧し現実に起きたことではないできるのではないかとぼくは信じている。それがもしぼくにとって不健康だったとしても、もしそれが本当に誰かのためになるような気がするのであれば、そこには愛があり、ぼくが不健康なだけで愛が存在するのであれば、とても美しいことだと思う。
お互いに一晩寝ればなんとかもとの生活に戻ろうという決意がつく、もしくは戻るしか選択肢がないということに気付かされるのか、いつもは大体どんな理由であれぼくはめんどくさくなるので、すぐ謝ったり何もなかったかのように話しかけたりするのだが、今日は珍しく聖子ちゃんからコーヒーを飲むかと頭まで被ったブランケット越しに声をかけてきた。多分一緒に住んでもう14年弱になるが、聖子ちゃんから和解のための行動を起こしたのは初めてではないだろうか。
大人になると大なり小なりみんなそれぞれに人に言えない秘密を抱えているのは当たり前だと昨日の映画でも言っていたが、本当にそうだろうか。ぼくは本当の3年くらい前までは誰も秘密なんて持つべきではなく、秘密なんてものが存在する社会があるから世界は美しくないのだと思っていた。ぼくは、多くを包み隠さずにここに書けないことは現実にもしないような人生を送ってきたつもりだった。
それでもやはり年齢を重ねる中で言いたくないことも言えないことも言うべきでないことも増えてきた、いや一つまた一つと貯まってきたというのが正しいかもしれないが、それが事実である。今となってはなんでも話せるような家族や友人はぼくにはいないし、もしぼくがある数少ない親友と言えるような人にどれだけ心を許しているとしても、自分の口からそのことを話し始めることで、それが現実世界に飛び出して実体を伴ってしまうのではないか、と考えるのだ。ぼくが自分の口から語り始めないことは、ある種ぼくの身体のどこかにいるその実体を伴わない秘密と実体しかない現実との間において、とてつもなく高い防波堤になり、ぼくの口から放たないことでそれが現実に起きていることではない、現実で起きたことではないことにできるのではないかと考えるのである。ぼくたち、いや独立した個々人は、その防波堤になるだけの力を備えているし、自制や、時に抑圧のような暴力的なやり方を使ってでも自分が最後の壁となることができるのだ、とぼくは信じている。それは、もしぼくたちが戦場に行っても、個々人がたとえ銃を手に自分の意思とは反して銃を持ったとしても最後の最後までぼくたちはその引き金をひかない権利を有しているのと同じである。その一点において人間には完全な自由を有する、社会や権力に対して大きな壁となり得るのだ。少々大袈裟だが同様に、ぼくが目の当たりにした秘密にしなければならないあれや、ぼくが感じた受け取った秘密にするべきそれは、ぼくという一人の独立した個人の自制や、我慢によって強く抑圧し現実に起きたことではないできるのではないかとぼくは信じている。それがもしぼくにとって不健康だったとしても、もしそれが本当に誰かのためになるような気がするのであれば、そこには愛があり、ぼくが不健康なだけで愛が存在するのであれば、とても美しいことだと思う。