朝の食卓で、コーヒーを飲みながら聖子ちゃんとぼくの作品の話になった。否定されるのは嫌だなと思いつつ、遠慮なく本当に見捨てずに客観性をもたらしてくれるのは聖子ちゃんのみなので、感情的にならずに話を聞いていた。そして、理解できないことも感情的になることを避けてできるだけ理解しようという態度で彼女の意見に耳を傾け理解できないことには理解できないと言いつつも言葉が強くならないように意見を求めた。ぼくは、よく両親の趣味の話、記憶に残っている過去の体験の話を持ち出すのだが、それが聖子ちゃんにとっては、作品やぼくの制作に反映するには、ぼくの思考が浅はかなのだという。例えば、母が平日の昼下がりにリビングのソファに座り、お茶を飲みながら古い映画を見ていた。それがぼくはとても好きだった。ぼくの中である種の原風景となっている。その光景を見ていた時に抱いていたぼくの感情をどうにか作品に反映させたいといつも思っている。しかし、ぼくの理解によると、それは制作ではないというのが聖子ちゃんの意見である。なぜ、今そのことを思い出すのか、なぜ原風景を必要とするのか、そんな風なところまで深く深く掘り下げてこそ作品が作れるのではないか、ということである。原風景を否定しているのではなく、ぼくの思考の深みのなさを否定しているようだ。そんな話をしていると、ぼくも思うところがあり、しかしそれを口にしてしまうと今ある自分自身の存在も、聖子ちゃんとの生活も、海のある田舎町での冴えない日々も、全てが簡単に崩壊してしまう気がして、具体的な何かがあるにせよそれを言葉にしたくなかった。そんな風に声を詰まらせながら、コーヒーを眺めていると、聖子ちゃんが涙を流していた。それは具体的にはっきりと頬をつたいテーブルに落ちた。彼女は何を考えただろうか。知らなくてもよい。知ることもなくともわかるところもある。しかし、知ったからと何ができるだろうか。