2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.11.12

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2025.11.12

明日から不在なので、ステラの面倒を見にアヤさんが来てくれる。この海のある田舎街で友達がいないぼくにとっては、アヤさんは自宅に社会性が介入するほとんど唯一と言ってもいい存在ということを書いたが、やはり今日また彼女は社会性をうちに持ち込んだ。例えばみんながベッドに入ったらぼくはお風呂のシャワーの量を少し配慮したりするわけだから、それは面白いことだ。自分の家である、しかし同時に他人がいる。
それは、家族であり、妻であり、同居人である聖子ちゃんに対しても同様に行われるべきである行為である。自分の中に彼女を取り込みすぎて、同化させている。
ポジティブな同化ではなく、ネガティヴな同化。もちろん、その事実に彼女は気付き、時々指摘されているわけだ。そのネガティヴな同化を当たり前とした生活が続いてしまうと、家を一歩出た社会の中でも同じように行動する。
それが、よく見かける公共における怠惰である。家族とは、心が休まる場所であるべきだ、と大江健三郎はいったが、ぼくはその言葉を取り間違え続けてきたようである。
ぼくも無意識に公共と私的な場所を混同し始めているのではないか。そして、自分の怠惰を公共で振り撒いてはいないか。