2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.10.17

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2025.10.17

このグレーの空と、社会主義国家のように同じ建物が並ぶ街並みと、ブランド物を真似て作られたような陳腐な洋服をきた人々や、人気はあっても均一化された特徴の見えない個人店などを見ていると、自分の今の状況がそんなもので囲まれていて、自分自身でもそれを打破できていないことや、失われた数年とか、その数年の間に見逃してきたもう二度と訪れることのないチャンスなど、これから先にはもう一生見ることのない憧れていた風景など、そんなことが頭をめぐり、ふと深く光の差し込まないような井戸の底にいるような気分になることがある。
数ヶ月前にAudreyさんが遊びにきた時にも、ぼくと聖子ちゃんはこの街から出たほうがいいんじゃないか、と言っていたが、それは異論もなく全く同じようにそう思っている。ビザの問題があり、日本に帰ったところで少しずつ積み上げてきた書店やギャラリとの関係なども、軽薄になるのではないか、とか、日本に帰ったところで何も変わることのない諦めきれない過去の出来事だとか、それなりに自分の力ではなかなか捨てきれないものが重しになっている。それが決してこの海沿いの田舎町のせいではないとしても、それを感じ取った不遇の時代を過ごした街としてぼくの心の中にはいつまでも残り続けるだろう。
まだまだ30代半ばなのだが、諦め始めたこともたくさんある。諦めるしかなさそうだということさえも多くある。人生の時間は有限で、タイミングはその瞬間しかない。サッカー選手になりたくても、なれるわけではないし、なったからといって良い時間を過ごしている選手はさらに一握りである。
しかし、時にまだまだいつかやってみたいとは思いつつもやっていないことはたくさんある。例えば、ニューヨークにはそろそろ行きたいと思うし、ピラミッドにも行ってみたいし、北極にも行ってみたい。一度くらいオーロラを見たいとも思う。こんな当たり障りな今のではなくもっと具体的なものは、雪の降る時期にストックホルムに向かって車を走らせて、オスロに到着したい。いつか聖子ちゃんを連れて、ぼくが住んでいたフィジーのラウトカのマーケットで50セントくらいのパイナップルを食べたいし、ココナッツも飲みたい、またニュージーランドの南島で車でキャンプをしながら旅をしたいとも思っている。どこかを訪れることに関しては、健康と勢いさえあれば割と達成できるだろう。しかし、同時に、技術や積み重ねや、時間、運までを要することもある。展覧会をして人が集まる光景を思い描くと興奮するし、もし自分の本が書店に積み上がっているのを見てみたい、そんなことが起きたらなんと嬉しいことだろうと思う。カフェやレストランに自分の額装作品がかけられていること、そのお店に時々訪れること。これらは、ぼくが憧れていることの一部である。まだまだ憧れていることはある、そんなことを頭に思い浮かべると、このグレーの空も、社会主義国家のように同じ建物が並ぶ街並みも人々も、お店も、少しくらいはどうでもいいと思えるようになる。ほんの少しくらいだけ、ではあるが。