「自分の生活や思考を言語化し公開することは自己顕示欲や虚栄心の道具になっていないか」ということに囚われると、文章を公開するという行為自体がとても曖昧で時に不快な行為に感じられる。
ぼくは、2100年の生活学には、事実だけを記しているわけではないことを公言してきたが、ここで書き記されてきた出来事は、実際に起きたことも実際に起きたことではないということの境界性を曖昧にしながら、同時に実際に起きたことに加えるかのようにぼく自身がそうあって欲しいという願望をも現実で起きたことのように「日記という体」を保ちながら記してきたわけだ。しかし、ここにきて、そうあって欲しいという願望と実際に起きたこととを曖昧に書き続けるということは、同時に、自分自身が自己顕示欲や虚栄心とも強く握手を交わしているような疑念が浮かんできたのである。これがぼくがここに文章を公開することの危険性を深く受け取っている理由である。
2100年の生活学を通じて、ぼくが日常や生活、思考、スタイルについて書き記す言葉はマニフェストや宣言になりかねない。いや、すでにそうなってしまっていて、自分自身の行動を制限し始めているような気さえするのである。
そうなってしまった今、ぼくの日常というものは自己顕示欲や虚栄心を基にしたものになりかねないし、宣言によって律するというよりは自身の自由な体たらくささえをも含んだ日常を失いかねないのである。人の生活は、そうはあってはいけない、そうあるべきではない。今日話したことと明日話したことが違うとしても、体たらくさえも、それは一人の血の通った身体を持った人間なのだから全く問題ないはずなのだ。
想像力や願望というものはある種の虚栄心というものを含まずに語られることができるのだろうか。願望といえば、また虚栄心とは意味合いが違ってくるのだろうか。
ぼくは、2100年の生活学には、事実だけを記しているわけではないことを公言してきたが、ここで書き記されてきた出来事は、実際に起きたことも実際に起きたことではないということの境界性を曖昧にしながら、同時に実際に起きたことに加えるかのようにぼく自身がそうあって欲しいという願望をも現実で起きたことのように「日記という体」を保ちながら記してきたわけだ。しかし、ここにきて、そうあって欲しいという願望と実際に起きたこととを曖昧に書き続けるということは、同時に、自分自身が自己顕示欲や虚栄心とも強く握手を交わしているような疑念が浮かんできたのである。これがぼくがここに文章を公開することの危険性を深く受け取っている理由である。
2100年の生活学を通じて、ぼくが日常や生活、思考、スタイルについて書き記す言葉はマニフェストや宣言になりかねない。いや、すでにそうなってしまっていて、自分自身の行動を制限し始めているような気さえするのである。
そうなってしまった今、ぼくの日常というものは自己顕示欲や虚栄心を基にしたものになりかねないし、宣言によって律するというよりは自身の自由な体たらくささえをも含んだ日常を失いかねないのである。人の生活は、そうはあってはいけない、そうあるべきではない。今日話したことと明日話したことが違うとしても、体たらくさえも、それは一人の血の通った身体を持った人間なのだから全く問題ないはずなのだ。
想像力や願望というものはある種の虚栄心というものを含まずに語られることができるのだろうか。願望といえば、また虚栄心とは意味合いが違ってくるのだろうか。