2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.8.12

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2025.8.12

驚くほど快晴なので、夕方からビーチに泳ぎに行くつもりが行けなかった。
事情があり、行けなくなってしまい自分でもあまり感じたことのないような身体がソワソワと全身がこしょばいというような感覚を感じた。時間にも焦り、海で泳いでから家に帰ってやりたいと思っていたこともあったが、待っている間に、時間だけが経過した。そうやって行けないことに薄々気づき始めた時には、身体が動かなくなりベッドに寝転がって天井を眺めていた。最近このように金縛りにあったかのように身体がいうことを聞かないことが頻繁に起きる。実際には不貞腐れたわけではないのだが、他人から見ると不貞腐れたように寝てしまっていたようで時計を見ると23時半だった。聖子ちゃんは隣の部屋で映画を観ていた。シャワーを浴びて、濡れた髪のまま裸でソファに座った。そのまままた天井をボーっと眺めていた。後ろの方からキーンという耳鳴りが聞こえた。
36歳という人生の折り返し地点を迎えた今、ぼくは一体何をしているのだろうか。したい仕事も思うように出来ず、貯金ばかりが減っているように感じ、住みたい街にも住まず、着たい洋服も着ず、食べたいものを食べないような日々。隣の青い芝だけ眺めて、自らの身体を泥にまみれさせている。今ぼくが抱えている人生の本当の楽しみはなんだろうか。このままではいけない、このままでは生きる価値すら見出せない。生きていくには自分の心を喜ばせるしかない、人生は暇つぶしだとよく言われるが、ぼくはそんな風には考えられない。ぼくは心の底から好きなものに囲まれた生活をしているだろうか。そういうもののために生きるか、そういうものを生きる糧にしない限り、生きる意味さえも見出せない。損をしている気分になっていることに悲観しているわけではない、同時に得したいわけではない。美しく華やかな人生の形だけが素晴らしいとも思っていない。同時に教訓のある日々だけが良いとも思っていない。しかし、真っ暗で前がどちらかもわからないような日々だとしても、その中で差し込む一筋の光に向かって勇敢さと信念を持って歩みを進め、その歩の進め方に自分の意思を宿らせたような人生を過ごしたい。もし、結果その光の先に出口がなかったとしても、だ。それでもぼくの意思を持った歩みは少しの光に導かれ、小さくもその光によって照らされ、薄暗いか神々しいかは捉える人それぞれだが、見える形になればいいと思っている。それが美しく華やかになるのか、教訓になるのか、はただの結果にしかすぎない。