朝6時Schiphol空港発のKLMの飛行機に乗って、Genevaへ。突然キャンセルした航空会社へのぼくの不満を知ってか、もしくはそんなことがあったことすらも知らずか、機内ではCAが転職と言わんばかりの笑顔とハキハキとした笑顔で年配のCAが元気いっぱい働いている。時に嵐のような無神経さで土地を荒らすことによって、土地の人間の負の感情すらも取り払ってくれる人がいる。そんな呆れるほどに太陽のようなエネルギーを持ったCAだった。元気な時に会っていたら朝早くから元気すぎるという文句を言ってしまっていたかもしれない。ホテルに到着し、朝食だけもらい、Le Courbusierのレマン湖畔の小さな家villa le lacへ。Le Courbusierと従兄弟のPierre Jeanneretによって設計され、1923年から1924年にかけて造られた家で母の家と呼ばれている。Une petite maisonの名前の通り、Le Courbusierは両親のためにこの家をレマン湖北岸に建てた。Le Courbusierは作り始めた時に今のぼくと同じ36歳だった。彼のこの後続く哲学の片鱗を垣間見える実験作という印象で、家の気持ちよさ以上に、心の栄養となった。
VeveyからGenevaへの帰路、Jean Luc Godardが住んでいた村へ立ち寄る。それは、Le Courbusierの小さな家villa le lacと同じく、レマン湖畔に位置する小さな村であるようだった。少しリサーチしたところによると家から歩いて数分のところにある近くのパブで毎朝エスプレッソを飲んでいたというので、立ち寄った。Queen、Red Hot Chilli Peppers、New Orderが流れ、カウンターの中で働く店員は、ここで偉大な映画監督がコーヒーを飲んでいたことを気にするそぶりもなく、しっかりとよれて味わい深い黒いジュラシックパークのヴィンテージティシャツをきていた。Jean Luc Godardの家から最寄りのスーパーはcoopで、駅からは公園を通り抜けることで、芝生を歩けば近道になるような場所であった。それから彼の住んでいた村の最寄駅からVevey方面に電車に乗っているとIKEAがその景観に配慮をすることもなく他のまちと変わりなく建っていて、Jean Luc GodardもQueen、Red Hot Chilli Peppers、New Order、IKEAの存在知っていたのかと妙に不思議な気分になり一気にJean Luc Godardという人間が実体を持ち始めた。ぼくを含め、多くの人は、歴史に名を残すほどの作品を作ったり、素晴らしい行いをした人をすぐに偉人として認識してしまう、時に想像力で当の本人の持ち合わせているもの以上を追加してさらに偉大なものとする。どんなに素晴らしい映画であれ作品であれ、実際には1人の人間が作れるものである、ということを忘れてはいけない。Jean Luc Godardも人間であったのだと感じた。
VeveyからGenevaへの帰路、Jean Luc Godardが住んでいた村へ立ち寄る。それは、Le Courbusierの小さな家villa le lacと同じく、レマン湖畔に位置する小さな村であるようだった。少しリサーチしたところによると家から歩いて数分のところにある近くのパブで毎朝エスプレッソを飲んでいたというので、立ち寄った。Queen、Red Hot Chilli Peppers、New Orderが流れ、カウンターの中で働く店員は、ここで偉大な映画監督がコーヒーを飲んでいたことを気にするそぶりもなく、しっかりとよれて味わい深い黒いジュラシックパークのヴィンテージティシャツをきていた。Jean Luc Godardの家から最寄りのスーパーはcoopで、駅からは公園を通り抜けることで、芝生を歩けば近道になるような場所であった。それから彼の住んでいた村の最寄駅からVevey方面に電車に乗っているとIKEAがその景観に配慮をすることもなく他のまちと変わりなく建っていて、Jean Luc GodardもQueen、Red Hot Chilli Peppers、New Order、IKEAの存在知っていたのかと妙に不思議な気分になり一気にJean Luc Godardという人間が実体を持ち始めた。ぼくを含め、多くの人は、歴史に名を残すほどの作品を作ったり、素晴らしい行いをした人をすぐに偉人として認識してしまう、時に想像力で当の本人の持ち合わせているもの以上を追加してさらに偉大なものとする。どんなに素晴らしい映画であれ作品であれ、実際には1人の人間が作れるものである、ということを忘れてはいけない。Jean Luc Godardも人間であったのだと感じた。