例えば、「今日1時間時間を与えますのでこれをやってください」と言われたとしても、同時にその当日に与えられるタスクが膨大にあった場合には、自分が与えられたタスクをショートカットしたり、大雑把にしたりして早く切り上げることで1時間を捻出することはできる。しかし、その行為は、モラルの欠如だ。ぼくにとって、結局のところ1時間をもらったことにはならない。オランダに引っ越してきてから、こんなことがとても多い。与える側の人が何もかものルールを決めているので、結局のところ自分で調整してしか解決できないことばかりである。もちろんルールというのは誰かがイニシアチブを持って決めなければ決まらないのだが、ルールを決めることを急ぎすぎているような気がする。ぼくはルールを決めることを決めてから熟考したり、失敗を重ねたりすることによって、オーガニックな形が出来上がることを望んでいるし、そんな緩やかな社会や地域で育ってきた。
オランダに来てから日常生活の中で随分理不尽なことが多いと感じるようになった。問題は、全て起きてから解決しましょうという態度である。いや、「解決しましょう」ではなく、「あなた自身で解決してください」という態度だ。相談するとなっても、それは私の担当じゃないからわからないと言われる。ルールとシステムが人のための存在しているのか、ルールとシステムのために人が存在しているのか。社会を潤滑に未来に進めるにはルールとシステムが機能していないといけませんので、人間はそのルールとシステムにハマることが必要です。その条件を飲めないなら大人しくルールとシステムのために泣き寝入りか、荒野に放り投げられるか、だ。ぼくは荒野から石ころを投げ込んでいるが、ルールにもシステムにも感情はなく、彼らは痛みさえも感じてはくれない。それでもただただぼくは意味もなく石ころを投げ込んでいる「だけ」なのだ。
ぼくの柔軟性の欠如なのか、ぼくが慣れ親しんだ社会との違いなのか。理不尽な出来事が降りかかるたびにぼくの大切に育んできたはずの感受性を擦り減らし、意味もなく傷心している。
オランダに来てから日常生活の中で随分理不尽なことが多いと感じるようになった。問題は、全て起きてから解決しましょうという態度である。いや、「解決しましょう」ではなく、「あなた自身で解決してください」という態度だ。相談するとなっても、それは私の担当じゃないからわからないと言われる。ルールとシステムが人のための存在しているのか、ルールとシステムのために人が存在しているのか。社会を潤滑に未来に進めるにはルールとシステムが機能していないといけませんので、人間はそのルールとシステムにハマることが必要です。その条件を飲めないなら大人しくルールとシステムのために泣き寝入りか、荒野に放り投げられるか、だ。ぼくは荒野から石ころを投げ込んでいるが、ルールにもシステムにも感情はなく、彼らは痛みさえも感じてはくれない。それでもただただぼくは意味もなく石ころを投げ込んでいる「だけ」なのだ。
ぼくの柔軟性の欠如なのか、ぼくが慣れ親しんだ社会との違いなのか。理不尽な出来事が降りかかるたびにぼくの大切に育んできたはずの感受性を擦り減らし、意味もなく傷心している。