2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.10.8

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2024.10.8

昼過ぎに街を散歩してるときにSpotifyでふと一曲の邦楽を聴こうと思い、聴いていた。大体、曲が聴きたくなった時には、アルバムをそのまま聴くか、Song Radioというものを選択し聴くのだが、今日もいつもと同じようにSong Radioをそのまま流しっぱなしにしているとそのままいくつかの違うバンドの音楽が流れてきた。10代の頃はよく聴いていたが、いつからか日本語の曲を普段あまり聴かないようになったので、興味深く聴いていると、どのバンドも言葉選びが似ているなと感じた。「溶けそうな眠り」とか「足跡」「永遠に果たされない想い」「影」「記憶」とか。もしかしたら、それはぼくが10代の頃に漁るように聴きまくっていた邦楽の影響かもしれない。その頃、言葉は自然と植え付けられたのだ。それは同世代の音楽家にも言える個々人の中に潜在的に潜んでいる言語感覚だ。
もしくは、というか、実のところ言語が似ているというのは最近自分自身の言葉遣いに対して思っていることで文章を考えたり、作品のタイトルを考えたり、Rememberとか、Memoryとか、Wall、とかそういうものを簡単に使いすぎる傾向があるようで安直な自分とそれに執着している自分に嫌気が差す。そう思うとそのような文章が世界には蜘蛛の巣のように、身体や全体に薄く纏わりつき、「なんとなく」不快感を覚える。時代の流れとも言えるだろうが、自分の思考の軽薄さとも言えるし、無知だとも言える。
しかし、それほどぼくは記憶に執着しているのだろうか、いやぼくたちは、なぜ記憶に執着しているのだろうか。
大体こういう風に書くと、社会への文句だとか現代批判だと言われるがそういう側面はあるにせよ全くそうではなく、他者に向けた言葉のようでありながら、ぼくにとってはそれは内省であり、自分への強い言葉である。この日記で書かれる言葉は、全ては社会に向けた言葉でありながら、あくまで自分自身への言葉であり、未来から過去の人間が何を考えて生きていたのかを知る手掛かりになるものでありたいと思っている。それに、世界とぼくの間に大きな境界線は存在しないと思っている。
しかし、言葉選びが似ているという話に戻すとすると、そもそも言語が似ているように感じてしまうのは、それは老化なのか、もしくは単純に世代的な言葉選びなのか、もしくは自分が意識しすぎているせいで、その言葉が耳につくのだろうか。時々、街を歩いていて赤い車、と思うと街中の赤いものばかりが目に入る日があるが、それに近い。必ずそこにはオーストラリアの空くらい青いワンピースだって、図録に載っていたゴッホのひまわりのようなきいろだって存在したはずなのだ。しかし、赤い車と一度意識してしまうと、どうも世界は赤いもので溢れているような気がしてしまうのである。
インターネットが普及して、特にiphoneがきちんと普及して、おそらく10年くらい経ったと思うが、それ以来、言語感覚が大きく変化したことは間違いないし、その中で意識的にでも違う言語を取り入れ、それは自分とは違う文体を持つ人や、話し方をする人と接していないとどんどんと言葉の幅が狭くなるだろう。言葉を失うと思考も感覚を捉え方も狭くなっていく。歴史を遡ると、それを補填するのが絵画や芸術の力とも言えるだろう。言葉を失う事による思考の停止や世界が狭くなることに対抗するように芸術は存在するのか。
ぼく自身も少なくともパブリックな場所で言葉を読まれる一人の人間として言葉を選ぶ責任があり、いや全員に言語を扱う責任があり、その言葉によって社会へ参加するべきである。言語というものはどんどんと変化していくのが健全な姿であるのであれば、この邦楽の歌詞を書いた方やぼくのような人間は、時間の感覚を捉えるためには世界における存在価値もあるのかもしれないと思う。
こんなことを書いていると、大体文句だと言われることがあるが、これはぼくにとっては内省であり、世界とぼくの間に大きな境界線は存在しない。そんなことを言っているとスピーカーからNicoがI’ll be your mirrorと歌い出した。