2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.9.24

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2024.9.24

カナさんとアムステルダムへ。Rijksmuseumへ行きああだこうだと言いながら作品を鑑賞。フリチュールを食べ、Café Twee Prinsenで早めにサクッと一杯して帰る。久しぶりにゆっくりと話せた。聖子ちゃんとはここに書くようなことは話さないのだが、カナさんとは時々話すなということを思い出した。自分がいかに自分自身が思い描いていた美しい未来の姿からかけ離れた存在になりつつあることについてカナさんに相談。
思い描いていたものとは、つまり自分自身の想像によってクリエイトされたものであり、未来への夢想である。例えば、目標、希望、憧れ。それは大小さまざまに存在している。
しかし、同時に思い描いているものとは、想像によってクリエイトされたものであるがゆえに過去に依存している。自分自身が今強く感じる「思い描くものに届いていないという事実」は実のところ過去に思い描いたものと今現在立っている場所とのズレであり、自分自身が過去に思い描いた存在とは違う存在になりつつあることは過去の破壊というぼくの憧れる概念にはどんどんと近付いているとも言える。目標も希望も、実際にその時に立った時、ずれを感じるのは当たり前だろう。それは過去に作り上げたものであり、今現在の自分ではない。例えば、20歳の時に30歳になったらこんな風に生きたいという目標があったとしても、実際に30歳になると、そんな生き方はしていないだろう。それは、20歳の時の目標であり、30歳の今の自分自身を内省した姿ではないからだ。しかし、こんな髪型をしているはずではなかったし、気の利いたスマートな人間になれているはずだった。日々の思考の層の積み上げの薄さと、度胸のない行動のせいであの頃思い描いていた姿ではない。しかし、同時に違う側面を受け入れると、例えば母が乗っていたグレーのシトロエン2CVに乗りたかったが、父や母の影響から解き放たれた本当の自分自身の趣味を作りたい、あの頃享受してきた自分自身の力ではないものに依存するような生活から脱却し、自分自身の力を知りたいと思っているのだから、あの頃からのズレさえは受け入れて乗り越えていくしかない。左から弧を描いていた曲線さえもぼきっと折ってしまって、短くてもいいから地面に真っ直ぐに突き刺したい、そんな気分で生きているのだ。