2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.8.24

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2024.8.24

辻村さんと家を出て、朝8時にDen Haag Centralでリリ世ちゃんと待ち合わせをして、電車でザントフォールトへ。雨のなか、土手に座り、たった1時間のFormula 1のレースに備える。その間には催し物のようなポルシェのレースやクラシックカーのレース、DJなどもあるが、どうも本番までの間を埋めるような、なくても誰も困らないような催し物のように感じて、それがより一層ぼくの心に虚無感を生んでしまった。レースが始まってしまえば、「速い」という即物的な感情以上の何かを生むだけの知識も情報も持ち合わせていないので、速さと雨が上がって晴れ上がった広大な土地の気持ち良さを味わう以外には何もやることがなかった。
結局、人生におけるほとんど多くのものや出来事は、他者の介入を必要としない個人的視点からの楽しみの上にしか成立しないのだろうか。自分がそれ自体を他者の介入や環境依存なしに楽しんでいれば、他者が何をしてようが他人から嫌なことをされようが環境が悪かろうが、何も苦にならない。楽しみの多くが他者や環境に依存していると、自身にとって残念な他者の行為や環境の変化から残念な気持ちになってしまうが、もし個人的な楽しみだけでそれが満たされていれば、他者や環境の変化による影響を受けることもなく、嫌なことなど存在しない。他者や環境に依存しないということは他者や環境に期待しないということでもある。ぼくは(そしてぼくの父親も同様にであるが)、他者がこうしてくれる、この場所はこんな風にあるだろうと自分自身ではコントロールできないものに期待してしまうので、いつも残念な気持ちになるのだ。母親にも聖子ちゃんにも「人に期待しすぎ」と耳にタコができるくらいによく言われていたが、それでもぼくは他者や環境に期待をしてしまっている。人に期待してしまうのは、その人に希望や信頼を込めているからであり、信頼していない人には期待していない。散々言われたとしても、DNAで受け継がれたように感じるぼくのこの性格では、他者や環境には多かれ少なかれ期待はしてしまうので、期待をしないようにするというのではなく、ぼくが抱こうとせずとも自分自身でも思ってもみない間に抱いていた期待を裏切られた時には、その事実を受け入れ、柔軟な心で過ごすということを一つの目標としてきたところもある。それができているかどうかはわからないが、自分自身の人生において、もしくは日常の中で、気分が沈んだときに、どのように再び立ち直るかということ、それがぼくが人生をかけて育てていくべき人生のテクニックでもある。死へ直面したところから再生するだとか、絶望の淵でいかに踊れるかという物語がぼくはとても好きである。なぜぼくが、ほとんど全くと言っていいほど何か嫌なことをされても根にもつ方ではないというのは、自分の期待を裏切られ続けてきた人生の中で形成されてきた一つの性格である気もする。
レースの後、辻村さんとリリ世ちゃんはアムステルダムへ行くということで、現地で別れ一人で会場内を徘徊していると途中で大嵐になった。大雨の中1時間以上も歩き最寄りの駅からデン・ハーグへ。晴れを期待していたわけではないが、ウォータープルーフのジャケットとパンツを羽織り、濡れてもいい準備をしていると、海辺での台風速報中のアナウンサーくらいに雨風を浴びていても一人で歌を歌えるだけの余裕があった。それにしても雨にずぶ濡れになってまで、レースを観に来ているファンたちは何にこれほど熱狂しているのだろうか。F1は、ぼくのように日常で日々直面する物事に人生を重ねて想いを耽ているような人間ではなく、心の余裕ある人間でないと楽しめないスポーツなのではないかと思った。