2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.8.14

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2024.8.14

朝からまいちゃんと坂田さんと聖子ちゃんと4人でPompernikkelへ。
自分が初めて海外に来た時に、何をどんな風に感じていたのかというのは、何をしたか、どんな面白いことがあったか以外にはぼくには言語化できるものではなく、自分の身体に染み付いているとでもいうべきだろう。今回の旅がまいちゃんにとって初めての海外で、彼女自身が今何を感じているのか、これから対峙する物事から何をどんな風に受け取るのかがとても気になる。彼女のこれまでの経験や元々備わっているであろう性格から、対峙する物事をどんな風に受け取るのかということであって、ぼくや他の人たちが経験したような10代での初めての海外が正しいわけでもなく、バックパッカー世界一周が正しいわけでもなく、30代での初めての海外が間違えであるわけでもない。それらは愛でられるべき差異であり、比較対象にはならないだろう。さらに旅に出たきっかけがどんな理由であっても、たとえ自分が憧れていた国でなくても文化的影響のあった国でなくても、一人で何かを決断して旅に出てその土地で何をどんな風に感じるのかに興味がある。勝手ではあるが、その旅の道中で出会った人から何か刺激的なものを受け取っているといいなと思う。まだgoogle mapやInstagramを含めたオンラインがまだ盛んではなかった時代の旅や、クラスにいる友人たちがまだ行ったことのないところへ行ってみた経験をしたぼくからすると、他人から聞いていたこと以上に、自分自身の身体全身を使って知見し、どんな風に立ち向かえるか、何を感じるのか、どれだけのことを受け入れられるかを経験してほしいと思った。人がいうことに真実はあるのだろうか。自分にとっての真実は、自分の思考や目でしか見極められないように思う。ぼくが新しい場所へ行きたくなるのは、きっと知らないことに対峙した時に拒否するのではなく受け入れるというような柔軟な思考や身体を手に入れたいのかもしれない。
しかし、こうやって文章を書いていると、自分が海外経験が少しあるとか、現在生まれた国に住んでいないということとか、そういうことで来客に対して何かを諭すようなことになっていないだろうかとも思う。何事においても決して傲慢になってはいけない。自分は無知であり、まだまだすぐ隣には新しい世界が存在するということを認識しなければいけない。新しいものは常に経験をも超える強くスパークする力を備えているのではないか。フレッシュな目を持つ人は常にそれを失い始めている人以上に美しい未来を見ているのではないか。
明日からみんなでベルギーへ行く。