2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.5.26

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2024.5.26

今日も聖子ちゃんが外で仕事のため、家で一人で過ごす。家の近くでマーケットがやっていたので、立ち寄る。イチゴが2パックで4ユーロだったので買った。マーケットで昼食の食材を買おうと思っていたが、特に良いものが見つからず、雨も降り出したので急いで帰る。家に帰ってハンパになっていてステラにあげようと思っていたチーズの塊でリゾットを作る。今日も、家であれこれとしているが、ずっとモヤっとした感覚が抜けない。4月末くらいから辛気臭い雰囲気が強く漂っている。いや、おそらくもっと前からだろう、もっともっと前だ。生まれてからずっとかもしれない。夕方また机の上で寝てしまったので、場所を変えそのままベッドへ。19時半ごろ目を覚ます。晴れていて気持ちよさそうだったのでカモミールティーを飲んだ後、自転車に飛び乗りビーチに夕陽を見にいった。オランダのどこまでも続く水平線に富士山がないのを不思議に思うようなことがあるほど葉山のビーチを思い出すが、それは決してここが葉山と似ているというわけではなく、ただ同じ方向を向いているということだ。陽が沈むの砂の丘から見ていると、自分の喜びはどこにあるのか、心が満たされるということは何か、何をするのが好きなのか、何をすれば他に何もいらないと思えるのか、気分が不安定な時にそれを掴み続けているだけでも自分を見失わないのだろうが、大体気分が不安定になるとぼくはすぐに掴んでいるはずのそれを手放してしまう。何か心の底から自分の喜びのためにできることとは何かを見失っているような気さえする。自分の心の底から満たされることとは一体何なのだろうか。
ぼくは、自分の継続力のなさと、成長のなさと、集中力のなさに常に落ち込んでいる。それから、お金で解決できることで悩みすぎてるし、この世の中にはお金で解決できることが多すぎるように思う。いや、恥ずかしいことに自分の見ている世界がお金で解決できることが多すぎるのだ。しかし、自己欲求を満たすためだけにお金を使うのはつまらないと思うし、それで同時に自分を苦しめるくらいならお金使えばいいと言われる。あまりお金を含め自分の外のものとの関係を作るのが上手ではない。
最近の話ではなく、思い返すと2019年から何となくずっと苦しさを感じている。もしかすると、高校生の頃からそうかもしれない。30代というのは苦しいが少しでも積み上げていくしかない。20代の頃は、30代になればきっと何か実を結ぶなんて思っていたが、そんなものはない。自分がやってきたことしか実を結ばないのだ。苦しい中でも、しんどくても度胸を持って一つ一つ自分のペースで積み上げていくことによってしか実を結ばない。継続力と集中力と度胸、ぼく自身に明確に欠落したその3つ。
こんなふうに話すと辛気臭いなと言われる。辛気臭い雰囲気を纏いながら生きていると、自分が書く文章も撮る写真も作るものも全てが辛気臭い。自分でも自分の作るものを見てられない。辛気臭くてもそれが今のぼくであれば、全てを曝け出し辛気臭い作品を作る他にはないのである。しかし、きっとその辛気臭い雰囲気に嫌気をさして作品を見る人はいなくなるかもしれない。それでも、唯一はっきりとわかっていることは、ぼくは何かを作ることでしか自分自身を満足させることはできないし、作ったものに対してもその時点では全く満足できない。しかし、後から自分の人生を見返したときにあんなことは考えていたけど何も作らなかったし、何も社会に向けて自分の意思を伝えようとしなかったという恥ずかしい羽目にはなりたくないと思っている。それに作ることによって反応してくれる人たち、作品を買ってくれている人たちがいることはぼくの継続性を保ってくれる生命線のようなものである。