2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.3.27

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2024.3.27

天気が良くなってきたので、13時半ごろ自転車でサイクリング。そのまま気分でVoorlindenへ。リチャード・セラが亡くなったということで、挨拶を兼ねて。自転車で30分弱くらい。平坦な道をほとんどまっすぐに進み、森を抜けると到着するので、快適なサイクリングだったし、まだコートを羽織る必要があるような季節であるが、数組のカップルが日陰と日向を混ぜるように椅子に腰掛け、なんとなくルノワールの絵に登場する草むらを思い描くような色の風景が続いていた。
一つ目の部屋に入った時、鳥肌がたった。最近の自分の生活や日々の葛藤がいかに閉鎖的で、不自由なものだったのかを感じさせられるような、自分の居場所はこういう余裕のある空間であるというようなことを示唆するような感覚に陥った。一枚のペインティングが広いスペースにかけられ、全てを満たしてくれるような不思議な感覚を覚えた。
帰り道、セントラルエリアのCafe Bartineのテラスに座り、夕陽を浴びながら、カフェ。暖かい日差しを浴び、テラスでビールを飲んだり、友人と話し込んでいる。目の前を駅に向かって急足で歩く金髪の女性、スーツケースを押すスーツの男性、ケバブを齧りながら跳ねるように歩く4人組の青年。彼らを見て、ここに歩く人々はこの土地での生活を満足しているのだろうか、多くの人たちはこの街を通過するだけのビジターなのだろうか。そんなことを考えていると、ぼくもこの土地に住む人間ではあるが、この街を流れる風の一つに過ぎず、この街を作るためにぼくたちがこの場所で立っているのだろうと感じた。ぼくたちも街の風景の一部に過ぎず、また長い歴史の中で街は自分自身より長く存在しているし、全てを知っている。何かを語ることはないが、それでも人々の想いに応えるように美しく生まれ変わり、時に破壊されている。そして、変わらずに歴史を語る唯一の存在として、その土地に残り続けるのだろう。陽がビルの影に隠れたので、立ち去った。
毎週水曜日のマーケットに行き食材を調達。夜は、何を食べたか記憶がない。天気がいいだけで日々生きている実感を味わえる。