2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.3.25

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2024.3.25

夕方、ビーチに行く。砂の上に寝そべり、世界を2つに分裂させようとしているかのように真っ直ぐに濃く白い線を描く飛行機雲と青空を眺め、ごうごうと音を立てる風の音に耳を傾ける。
North Seaの風を浴びていると、みんながフラットになれる気がする。ここにいる人間全てに対等にソルティーなべたっとする強い風を浴びせているし、そこにもし川久保玲がいたとしても、大江健三郎がいたとしても、ジャン=リュック・ゴダールがいても、風は対等に遠慮なく吹き荒れるのである。風は媚びることなく、風は風のスタイルで風として風を吹かせているのだ。そこに生える木に媚びることもなく、砂にも波にも媚びずに風は存在する。また、木も砂も波もお互いに媚びずに共存している。媚びないでも、対等な立場で尊敬し合い、立場を理解し合い生きているように見える。風は決して波になろうとはしないし、木も砂になろうとはしていない。自分の役目をきっちりと理解している。今日、1人で何をするでもなくビーチで寝そべっていると、ぼくは自分自身と社会に対してこんなものを求めているのだろうなと感じられた。人に自分の尊厳や権威をアピールするような生き方ではなく、厳しくとも自分が自分の思いのままにいれ、足るを知り、自分自身の価値を信じながら生きられる生き方を模索している。世界中で謳われるBe Freeみたいな言葉に素直に心から共感できないのは、決して自由を求めているわけでもないのだろうなと思う。ぼくらが生きる時代が、自由を求めた時代から、自由すぎる時代に突入しているからだろう。
最近、作品を制作している。写真のプリントをし、額装しているのだが、自分の作品を見ていると、きっと「あいまいさ」を持った人間があいまいなものを嗜好し、「あいまいさ」を愛でながら制作しているのではないかと思えてきた。正しいだろう、はっきり言って、ぼく自身は世の中にある「あいまいなもの」の重要性を謳い、あいまいな空間や思考を残すことが世界の歪みのクッションとなりえるのではないかと思っていた。いや、今もそう思っているはずだ。たとえば、みんなが知っているヨーロッパの多くのカフェテラスでよく見る光景にこんなものがある。客が歩いてきて、何も言わずにテラスにさっと座って、タバコに火をつける。お店の人がオーダーをとりにくる。そして、エスプレッソを飲んで、コインを置いて立ち去る。これを「
あいまいさ」とぼくは感じる。アメリカ式のカフェのようにオーダーしてお金を払ってから飲み物がもらえるというのは、ぼくはあいまいではないと感じるし、ぼくの好むところではない。しかし、ヨーロッパのカフェテラスには、しないとしても飲み逃げ食い逃げするという可能性さえも秘めているし、ちょうど50セントないから多く置いていくということだってある。そんな信頼の上に成り立つ「あいまいさ」を持ったヨーロッパのカフェテラスの姿に世界の歪みによって生まれた溝を埋める未来を見ている。溝には、あいまいさから生まれる想像力が流れ込む。こうやって書いている今だって強くそう思う。
ただ、自分の作品を見ていると、自分の中にある「あいまいさ」に嫌気がさしてくる。ぼくの作品は、今「あいまいさ」が持つ余白に甘えているのだ、あいまいであることは、物事から受ける印象が中途半端で、強度がないということではない、決してそうではない。ぼくの愛する、世界の溝を埋めるための「あいまいさ」は、強く信頼することによってのみ存在することができる。もし、ぼくがまだ「あいまいさ」を支持するのであれば、そんな「あいまいさ」を保ちたいのだと思う。ぼくは、今自分が持っている弱い逃げ腰の「あいまいさ」から逃れたいとさえ思っている。受け身な逃げ腰の「あいまいさ」ではなく、削りたてのナイフのように鋭く尖った攻めの「あいまいさ」だ。あいまいとはとても危険なのだ。一歩間違えると、あいまいであることに甘え、あいまいであることを美化してしまうのだ。あいまいとは快適なソファのようなものである、はっきり言ってしまえば、危険すらを孕んでいる。ぼくは、逃げ腰のあいまいさと同じくらいにソファも好きではない、声を大きくしよう、ぼくはソファが嫌いだ。そこに座る自分も含めた人々の怠け者の姿を見たいと思えない。自分を律しながら生きている合間に束の間存在するソファであれば、ぼくは受け入れたい。ただ、いつだってソファは人々を誘い込む、人々は、何も考えずに、享楽の地としてのソファへ全力で力を抜くかのように腰を下ろす。信頼感の上にない「あいまいさ」なんてものは、地震大国が大量に原子力発電所を稼働させているようなものなのである。何かに媚びるような人間にはなりたくないと思うし、もしぼくの作品が「あいまい」という言葉に媚びているような、そんな言葉に頼るように作品が出来上がっているとしたらそれは非常に残念である。たとえ、世界中のカフェテラスがさきほどの人間を信頼したスタイルになったとしても、自分自身は「あいまいさ」に甘えず、シャープナイフのような「あいまいさ」を持つ作品を作り続けたい。