朝から聖子ちゃんの機嫌があまり良くない。「なんでStellaの散歩行ってくれないの?」と言われたが、昨晩こんな会話があった。
「明日こそ私がせせらぎ公園に散歩に行く」
ぼくが「何時に行くの?」と聞いたら「6時台」と言っていた。
昨晩、彼女は意気込んで早く寝たので、そうしたいのだろうと思っていたのだが、結局8時ごろまで寝ていて、別に自ら起き出す気配もない。はっきり言うが、そこに全く文句があるわけではない。ぼくは6時半に起き、いつもであればそのままStellaと散歩に行くが、聖子ちゃんが散歩に行くと昨晩意気込んでいたこともあり、明日の来客もあることだし、WNYCを聴きながらお風呂とキッチンの掃除をしていた。その間Stellaはケージのなかだ。
そんなことで怒られてもというのがぼくの言い分だが、彼女からすると起きてもStellaがまだケージの中にいることが信じられなかったのだろう。ケージから出して散歩に行かないとなるとそれはそれで良くない。まず、一日の最初に、ケージから出たら散歩に行くという癖をつけているのだから。
彼女の方がその瞬間的を判断する思考があり、ぼくの方が過去の発言や行動から今の行動を決定していると言えるかもしれない。
今日は、聖子ちゃんと付き合い始めて、10周年。昨年、10年目に突入した時にプロポーズをし、今日で一応10年丸々経ったという事だ。彼女の手紙には、この10年の間に一緒に行ったお店も無くなっていると書いていて、なんだかなんだかんだで10年という年月は色々な環境さえをも変えてしまうのだなと改めて実感するような感覚に襲われる。2012年8月に一緒にとんきに行ったので、今夜はとんきへ行く。お肉を出来るだけ避けるように過ごしているが、今夜は行かずにはいられなかった。とびきり行列で、並んで待っていた。いつもの指揮官のおじいさんがおらず代打で、お金を仕切っているおじさんがオーダーもとっていた。
20分くらい待っていると、年配の常連らしきカップルが呼ばれ席に着く。すると、黒縁の丸メガネをかけキャップを被った厳しい表情をした白人男性が、大きい声でオーダーを取っていたおじさんに「私の方が先でした」と言った。一瞬、「え?」となり、揚げ場にオーダーを確認にしいく、きれいに白く洗われたハリのあるユニフォームをきた3-4人の男性をが集まり、間違ったか、合ってるかと確認しあっている。常連らしくカップルに、「ヒレとロースね?」と確認すると、「ロース2枚ですよ」と。
「あらら」と言いながらまた集まり、手に持っていたメニューを記録しているカードを並び替えていた。お兄さんが、「間違えました、すいません」と言いながら白人男性とその連れ合いに声をかけ席に案内。白人男性は、「私たちが、ヒレとロースです」と笑顔もなく一言言って着席した。その後、その白人男性は瓶ビールを頼み、連れ合いの前に置かれた小さなグラスに半分ほどビールを注いだ。会話を持たない二人はビールを片手に目の前の光景をただただ眺めている。
その一部始終をずっとみていると、不思議な気持ちになってしまった。「私の方が先でした」その抑揚を持たないその言葉が、ずっと頭の中でなり続けていた。
「私の方が先でした」ぼくには彼の空気を切り裂くようなソリッドなその言葉が、順番を間違えるとオーダーが狂いますよという正義感からの発言だったのか、もしくは彼の単純な待ちぼうけに嫌気がさし自分の方が先だったよというシンプルなメッセージだったのかがわからなかった。ぼくは、とんきに対して絶大な信頼をおいているし、順番が狂おうと狂わまいと、それは先に入店した注文したなどの順番などではなく、順番というのは、その場のテンションとか、隣あうお客様との相性だったりとか、人数だったりとか、そういうものによって決められていて、順番は前後すると思っていた。なんだかそのシンプルかつ強い言葉を聞いて、とんきに流れていた信頼のようなものの欠如というか、陥落を感じてしまうような気がしたのである。例えば、女性の方がお米が少ないとか、そういう配慮があるのが、店の魅力で、同様に賑やかな席のところに穏やかなカップルを並べにくいというのもあるだろう。ある意味、日本ではそのケースで「少なくしておきましたよ」と言わないことを美徳とし、一方で”little small size for you, beautiful lady””oh it’s so kind, thank you!”みたいな会話があるのが美徳とされる世界も存在する。女性軽視とかいう話では全くない。話がずれそうなので戻すが、それが出来ることが良いお店なのではないかとぼくは思うのだが、「私の方が先でした」と言われると、「そうだけど、そうじゃないんだよな」Yes But No的な認識を持ってしまった。その議論をぼくの脳内で延々をループさせている原因は、お店なのか、もしくはお客なのだろうか。順番が先か後かなど正直とんきにおいては野暮すぎると思うとぼく個人としては思ってしまうのである。そのなんとなくあるルールさえも客側が汲み取るというのが老舗の存在だと思う。それが会社とかになれば「忖度」とか、「暗黙のOO」とかそういうネガティブものと化してしまうかもしれないが、あくまで個人経営の脈々と続く名店においては、それは許されるべきなのかなというのが正直な気持ちでもある。日本の独特の感性かもしれない。その昔、「私の方が先でした」と言わせない空気は必ずあったと思うのだが、最近どんどん言わせないお店が減っているのも事実ではある。店の質の低下、及びそのお店だけではなく世の中に存在する全ての店の質の低下、そして、チェーン店によるサービスオペレーションの自動化、それに付随する客の質の低下、全てが悪い方向を向いているように思えてならないのである。
しかし、もし「私の方が先でした(as well asロース2枚が先程のお客様の分ですよ)」ということであれば、また話は違うのである。その場合は、その発言は、お客の未熟さを露呈しているとも言える。もっとお店を信頼し、自分の身を委ねてみるということが必要である。そのためには足繁く通い回数を重ね、信頼することが必要である。
なんだかモヤっとしながら、待っていると「お二人さん」と呼ばれる。「おふたりさ〜ん」ではないことに少しの寂しさを覚えながらも、10年前と大きく変わらないことへの安心を感じるのである。客も変わった、値段も変わった、食後の2つ目のおしぼりもお茶も出てこない、薬を飲もう仕草をしたとしても常温の水が出てこない、カードでも支払いができるようになった。それでも変わらず入店すると活気を感じ、列をなさずに待ち席に着席する自由があり、大きな無垢のヒノキのカウンターがあり、無駄口をたたかず黙々と働く男性たちがおり、黒電話は鳴っている。10年経っても、抜けるような清潔感と簡素さへの賛美がそこにはある。
その後、New York Barへ。去年プロポーズしたところへ1年後にまた来れることの喜びを噛み締める。
彼女の方がその瞬間的を判断する思考があり、ぼくの方が過去の発言や行動から今の行動を決定していると言えるかもしれない。
今日は、聖子ちゃんと付き合い始めて、10周年。昨年、10年目に突入した時にプロポーズをし、今日で一応10年丸々経ったという事だ。彼女の手紙には、この10年の間に一緒に行ったお店も無くなっていると書いていて、なんだかなんだかんだで10年という年月は色々な環境さえをも変えてしまうのだなと改めて実感するような感覚に襲われる。2012年8月に一緒にとんきに行ったので、今夜はとんきへ行く。お肉を出来るだけ避けるように過ごしているが、今夜は行かずにはいられなかった。とびきり行列で、並んで待っていた。いつもの指揮官のおじいさんがおらず代打で、お金を仕切っているおじさんがオーダーもとっていた。
20分くらい待っていると、年配の常連らしきカップルが呼ばれ席に着く。すると、黒縁の丸メガネをかけキャップを被った厳しい表情をした白人男性が、大きい声でオーダーを取っていたおじさんに「私の方が先でした」と言った。一瞬、「え?」となり、揚げ場にオーダーを確認にしいく、きれいに白く洗われたハリのあるユニフォームをきた3-4人の男性をが集まり、間違ったか、合ってるかと確認しあっている。常連らしくカップルに、「ヒレとロースね?」と確認すると、「ロース2枚ですよ」と。
「あらら」と言いながらまた集まり、手に持っていたメニューを記録しているカードを並び替えていた。お兄さんが、「間違えました、すいません」と言いながら白人男性とその連れ合いに声をかけ席に案内。白人男性は、「私たちが、ヒレとロースです」と笑顔もなく一言言って着席した。その後、その白人男性は瓶ビールを頼み、連れ合いの前に置かれた小さなグラスに半分ほどビールを注いだ。会話を持たない二人はビールを片手に目の前の光景をただただ眺めている。
その一部始終をずっとみていると、不思議な気持ちになってしまった。「私の方が先でした」その抑揚を持たないその言葉が、ずっと頭の中でなり続けていた。
「私の方が先でした」ぼくには彼の空気を切り裂くようなソリッドなその言葉が、順番を間違えるとオーダーが狂いますよという正義感からの発言だったのか、もしくは彼の単純な待ちぼうけに嫌気がさし自分の方が先だったよというシンプルなメッセージだったのかがわからなかった。ぼくは、とんきに対して絶大な信頼をおいているし、順番が狂おうと狂わまいと、それは先に入店した注文したなどの順番などではなく、順番というのは、その場のテンションとか、隣あうお客様との相性だったりとか、人数だったりとか、そういうものによって決められていて、順番は前後すると思っていた。なんだかそのシンプルかつ強い言葉を聞いて、とんきに流れていた信頼のようなものの欠如というか、陥落を感じてしまうような気がしたのである。例えば、女性の方がお米が少ないとか、そういう配慮があるのが、店の魅力で、同様に賑やかな席のところに穏やかなカップルを並べにくいというのもあるだろう。ある意味、日本ではそのケースで「少なくしておきましたよ」と言わないことを美徳とし、一方で”little small size for you, beautiful lady””oh it’s so kind, thank you!”みたいな会話があるのが美徳とされる世界も存在する。女性軽視とかいう話では全くない。話がずれそうなので戻すが、それが出来ることが良いお店なのではないかとぼくは思うのだが、「私の方が先でした」と言われると、「そうだけど、そうじゃないんだよな」Yes But No的な認識を持ってしまった。その議論をぼくの脳内で延々をループさせている原因は、お店なのか、もしくはお客なのだろうか。順番が先か後かなど正直とんきにおいては野暮すぎると思うとぼく個人としては思ってしまうのである。そのなんとなくあるルールさえも客側が汲み取るというのが老舗の存在だと思う。それが会社とかになれば「忖度」とか、「暗黙のOO」とかそういうネガティブものと化してしまうかもしれないが、あくまで個人経営の脈々と続く名店においては、それは許されるべきなのかなというのが正直な気持ちでもある。日本の独特の感性かもしれない。その昔、「私の方が先でした」と言わせない空気は必ずあったと思うのだが、最近どんどん言わせないお店が減っているのも事実ではある。店の質の低下、及びそのお店だけではなく世の中に存在する全ての店の質の低下、そして、チェーン店によるサービスオペレーションの自動化、それに付随する客の質の低下、全てが悪い方向を向いているように思えてならないのである。
しかし、もし「私の方が先でした(as well asロース2枚が先程のお客様の分ですよ)」ということであれば、また話は違うのである。その場合は、その発言は、お客の未熟さを露呈しているとも言える。もっとお店を信頼し、自分の身を委ねてみるということが必要である。そのためには足繁く通い回数を重ね、信頼することが必要である。
なんだかモヤっとしながら、待っていると「お二人さん」と呼ばれる。「おふたりさ〜ん」ではないことに少しの寂しさを覚えながらも、10年前と大きく変わらないことへの安心を感じるのである。客も変わった、値段も変わった、食後の2つ目のおしぼりもお茶も出てこない、薬を飲もう仕草をしたとしても常温の水が出てこない、カードでも支払いができるようになった。それでも変わらず入店すると活気を感じ、列をなさずに待ち席に着席する自由があり、大きな無垢のヒノキのカウンターがあり、無駄口をたたかず黙々と働く男性たちがおり、黒電話は鳴っている。10年経っても、抜けるような清潔感と簡素さへの賛美がそこにはある。
その後、New York Barへ。去年プロポーズしたところへ1年後にまた来れることの喜びを噛み締める。