2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2022.6.17

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2022.6.17

朝6時半に起床し、Stellaとランニング。ちょっと急ぎめに走ったせいかStellaがぐったりしていた。
22時ごろ絶望的な気分になる。
子供が欲しいと思っているのだけれど、子供は一人だけの希望では出来ないし、そもそも子供ができるかどうかなんて神のみぞ知るという感じである。二人の意思と希望だけで簡単にできるものでもない。そして、二人ともが望んでいなくても出来ることもある。出来た瞬間からそれが喜びに変わることだってある。
子供を作ること、育てること、それにはお互いへの十分な信頼と態度がいる。二人の人間が、結婚をする。あまりこういう不特定多数の人が見る場所にこういうことを書くことが自分にとってもそして読者のあなたにとっても良いことではないことは分かりつつも、明確に話を書き進めるためにも、はっきりとした言葉をまず書くとするならば、子供がいない夫婦の姿がぼくには想像できない。もちろん、子供がいない夫婦には、様々な理由があることは十分にわかっているつもりではあるが、それでもぼく個人の意識では歳を重ねていく過程の中で、ぼくは子育てをしたいと思って今も生きているし、それもあって結婚したとも言える。
だけれど、別に今ぼくたちには子供がいるわけではない。そして、二人ともまあまあいい年齢になってきている。お金に対する価値観も若い頃とは違う、どんどんと年齢を重ねると自分の両親や育った環境と価値観が似てくる。生活に関する価値観もちがう。こうやって文章にするとますます絶望的な気分になるが、それを選んだのは自分自身だから、誰のせいでもない。現状を打破し、変化させるだけの力が個人にはあると信じてはいるが、それでも現状がいますぐ劇的に変化するわけではない。だけれど、自分が人生の困難にぶち当たった時に、どんな選択をするのか、どんな風に自分の生をまっとうできるのだろうか、人生をどう生きるか、そういうものに対峙し、自分の頭で考えて乗り越えることで、自分の考え方とかスタイルとかができていく。自分のわがままを通す事だって必要だし、無理矢理する事だって必要、それをどう乗り越えるかを考えることも、体験することも必要だ。どうにもならないことだってあるけれど、それに絶望的な気分を感じながら、どう生きるか。
基本的には人生は絶望的なのである、それをどう生きるか。自分がカッコよく生きるために、そして何がカッコいいかと追求するために人生がある。人生があるからカッコよく生きるのではない。