DSMで彫刻家名和晃平さんトークイベント。
特にトークの内容と全く関係がある訳ではないので、誤解を招かないように前置きをしておくが、世の中の構造ってなんでこれほど難解なのでしょうね。人は何か自分のする行為に対して見返りを求めているように感じることが多い。自分の行動も無意識の中で見返りを求めているだろうし、本当に見返りを求めた行動は危険だと思う。
自分が自分の喜びのために行動し、それがどんな結果になろうとも、他人に何を言われようとも自分の喜びのために、その人のための行為であれど見返りを求めない気持ちで行動をし続けなければいけない。人は何か見返りを無意識に求めてしまうから苛立ちに繋がるのだ。自分は何も求めない、自分が正しいと思った行動をし、自分が他人のためを思って行動する、見返りを求めずただ行うだけなのである。
こんなことを書いていると中学と高校で散々読まされた(という表現は、かなり語弊と曖昧な意味を含むが、とても正直であり、あの頃のぼくたちにはある種とても正しい)キリスト教の聖書のようだなと思った。だけれど、神に祈ることで自分が報われると感じている人も実際多いよな。見返りを大きくは求めているように思えてしまう。これが中学生の頃からの大きな疑問だった。
本当に見返りを求めてしまうのが人間という動物の性なのだとすると、それをしないことを美徳とし、しないことによって救われるとしているキリスト教の構造ってなかなか興味深い。
人に自分に対する何か見返りを求めるのと、なんでもいいから自分に見返りが来ることを求めることをごっちゃにしてしまったような気もするが、特に今日感じてしまったのは前者であることをきちんと明記して今日の日記を書き終えることにする。あまり思考が研ぎ澄まされていないのと、キリスト教に対する認識の甘さのようなものが出てしまうような内容になって、これ以上修正すら出来そうもない。