2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2021.11.14

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2021.11.14

一応、明日が自分の中のプロポーザル完成予定日だったのだけれど、今日自分の中で新たな思考のつながりを見つけ、新しく書き換えることにした。長く書きすぎたせいでどんどんくどい文章になってしまっている。
写真を撮り始めたのは2010年とかだと思うのだけれど、自分の中で明確に写真を意識し出したのは、2012年フィジーにフィールドワークにいった時である。が、その頃の写真は、あくまで記録写真であり、その実体を明確に記録するといったような用途として写真を用いていた。同時に文章も記録しているが、その頃から文章は、具体性を持った記録としての言語ではなく、あくまでその時の心情や調子を測るためのものというようなものだった。それが、いつの間にか写真芸術、写真表現という形に変貌していくのは時の流れによるものもあるが、2014年ごろが一つ目の大きな転換期にあり、その後二つ目の転換期としては、2017年頃だろう。
言葉を紡ぐことは継続しつつも、言葉ではなく写真の特性である具体性の裏側に潜む曖昧さと心情の入り込む余地に取り憑かれ、自身の心情を写真に投影するようになる。しかし、自分自身では無意識にそう撮っており、あくまで感覚としては記録を目的とした撮影方法に近いのかもしれない。明確に図を意識して撮影するということはほとんどしてこなかったので、特別絵を作ることが得意なわけではなく、あくまで自分の心情や思考との擦り合わせなのである。そのため、人から依頼された仕事を得意としないのだろう。
こうやって自分のことを記録して、あとから自分自身で自分の思考と心情を問い直すような感覚と、それらをゆっくりと一度解いて、紡ぐ直す作業はなかなか面白い。考古学者を夢見ていた小学生の頃もきっと過去を知り、図鑑や記録には残らないことをああでもないこうでもないと想像することが好きだったのだろう。
自分をある種の研究対象とし、あくまで自分は研究者として自身を見つめる。野生の思考と行動を持ち、客観的に自分を見つめる強い眼差し。
そんな風に人は存在できるのだろうか。