2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2021.9.19

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2021.9.19

秋の到来を知らせる心地よい快晴。聖子ちゃんがコペンハーゲンに住んでいるときに朝から自転車でマーケットに行った日や、Mirabelleへモーニングバンズを食べに行ったことを思い出させる。なんだか懐かしくてあの頃は聖子ちゃんも大変な思いをしながら生活していたんだなと思うと胸が熱くなる。
日曜日でオフィスに一人だったので、音楽をかけないと静かすぎて不安と過去の思い出だけが襲ってくるような気がしたので、WNYC Radioを聴く。ボブディラン Blowin’ in the Windが流れて妙に過去に持っていたぼくの幸せな感情が押し寄せてきた。
陽の光が反射してすごくシティらしい色をしている時がぼくはすごく好きだ。オークランドも、メルボルンも、ロンドンも映画で観るニューヨークも、人のいないシティの朝に朝の陽がさしたり、賑わうシティに夕日が差し込んだときに素晴らしい色を持つ。銀座も漏れずにそういう時間は訪れる。たまに二子玉川のAntico Caffeのテラスにもそれは訪れる。
去年作ったAutumn Mixをかけるとエモすぎて自分はこんなに素敵な経験と感情のある日々を過ごしてきたのだとそれ自体を誇りに思えたし、それを同じように人と共有したい、もしくはぼくの何かが他の誰かのあの時の何かになりたいとも思った。色なのか、香りなのか、質感なのか、それは何かわからないけれど、ぼくは他の誰かのあの時の何かでありたいのだ。これは昔から変わらない希望であり目標なのである。
だけれど、現代に生きるぼくたちは、インターネット内にエモーションを残しすぎているのではないだろうか。InstagramとかSpotifyとかその中で色々な写真や音楽を残していく。そして、それらがあるうちはあの時の気持ちだとか、あの時の質感を思い出す装置として機能するが、例えばそれらがなくなってしまった時にぼくたちはどこからあの気持ちとか質感を思い出すことができよう。それは、アートなのである。ある音楽を聴いて、ある作家の作品を見て、映画を見て、食事や香水の香りから、時には印刷の匂いとか、ガソリンの匂いとかフィジカルに存在するものがぼくたちの過去を思い出させる装置として存在する。だから、ぼくは本を作るし、絵を作るのだろう。なんだか、今日は大切なことを思い出させるような日だ。
小さなコミュニティで完成するものではなく、パブリックに向けて、ぼくの知らない行ったこともない土地で、それが何かの記憶を呼び起こす装置になりたいし、同時にその土台がなくなっても残る場所に。地球がなくならない限り残るものを作りたい。
この日記もいつかフィジカルな形に還元させないと無くなりかねないと日々思っている。