2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2021.4.22

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2021.4.22

少し気になる程度の頭痛と耳鳴り、腹痛が続く。少し下痢。あと、小さめのしゃっくりというか、ゲップが出る。お腹の調子が悪いのかもしれない。お腹は空くのでたくさん食べるのだけれど。
お昼は、また太陽を浴びながらお弁当。ここ最近、食べに行く気にもなれないので、お弁当を作っている。お弁当をわざわざ作るくらいなので、気力がないわけではないのだけれど、食べに出る気力がないのかもしれない。
ぼくは人生の中で別れと再会のシーンを何度も繰り返しているので、慣れているのかと思いきや、ふと思い出して涙している自分がいる。今日も仕事中にふと涙が溢れてきた。聖子ちゃんときちんと連絡が取れなくなって数日が経った。参っていると、「もう何のために生きているのか、聖子ちゃんなしではぼくの人生なんて価値はない」とか思ってしまうのだが、少し元気になると、「これはぼくに課せられた試練なんだ、何が悪いのか、自分の行動を振り返り、それが嫌な行為だったことを認識するべきなんだ」と考えている。人間とはとても不思議な思考をしている。単純である。身体と心や思考は全てが連動する。病は気からと母には言われたが、たしかにそうで、気が元気な時には病気にならない。気が滅入ると大体体調を崩しているし、体調が悪いと思考が悪くなる。
仕事終わり、渡邉さんの彼、やありさんと遭遇し立ち話。岩手に行っていたらしく、その帰り道だという。鰻を食べたという話をし、「ぼくが東京の蒸しうなぎが好きじゃない、やっぱり表面がカリカリになっているものがいいんだ」と言っていると、岐阜の鰻は美味しいという話になった。なぜ岐阜に行ってたのか聞かれて、おじいちゃんの疎開してたのが岐阜で、毎年墓参りに行っていたから〜あれ?今でもおじいちゃんの骨は岐阜にあるの?おばあちゃんはどの墓に入りたいんだろうね?などとまた死に関連する話になった。
ぼくはここ数日死について考えすぎている。だけれど今日は違った、なんだか一線を越えたような気がした。これまでは死の前の話だった。数日前に観た映画も邦題「余命90分の男」というコメディだった。そういえば、遅くなったが「mid90's」も観た。あまり面白いと思えなかった。どこが魅力だったのかはいまいち掴めなかった。ぼくたちは批評家になりすぎるが、作品を作り上げることがどれだけ大変かを知らなさすぎる。作品を作ることの大変さを知っていると、安い批評は出来ないし、簡単な判断も出来ないと思っている。同時に決して悪い批評をすることは作品にとって決して悪いことではないとぼくは思う。実際、ぼくは本を作り、反応がないことが一番不安を煽るんだと実感している。
話は戻り、やありさんと話した墓の話は、ぼくの死に関する思考が一線を越えたことを暗示しているようですごくスッキリした気持ちになった。おじいちゃんが何かを伝えてくれたかのようでもある。