今年も2日から仕事。
お昼は、しゃぶせんで年始からしゃぶしゃぶ。年末30日に来た時は、老夫婦や、話し上手はおじさん、40前くらいの品のいい姉妹など、良い雰囲気のお客さんが多かったけど、今日はなんだか正月を楽しんでいるふわふわとしたお客さんが多い印象だった。それはそれで賑やかでいい。
新春ランチというものがあり、霜降高原豚120gを注文。いつもの豚ロースよりもお肉の味わいを感じる。年をと越したのだなとなんとなく感じた。
あまり年を跨いでも、ぼくのもやっとした気持ちは拭われず、思考を整理することができない。先日、buikのカナさんも日記をずっと書いていたということを話していたけれど、ぼくも2020年は全然文章を書かなかった。これまで書けなかったのは、日記を書き始めて以来初めてかもしれない。
きちんと言葉を紡ぐことを再開しないことには自分の思考を整理できないんだと再認識し、書くこと、思考を自分の頭から出すことを今年はきちんとしたいと思っている。書かなかった理由は、なんだろうかと考えていると日々の中で書けないことをしていた、または書きたくないことをしていた、単純に書く癖がなくなった、言葉を紡ぐだけの言葉を得なくなった、言葉を紡ぎ出すだけの日々を過ごしていなかった
など、結局自分の甘さ、意識の低さという面にぶち当たる。だけれど、それは自分の思考の逃げ道が結局、自分が甘いだとか意識が低いという部分にしか逃げられないだけではないかとも思う。
全てを自分のせいにすることは簡単なのかもしれない。人のせいにするということはリスクがあり、人との対立が生まれる。人のせいにするということは相当な自分への自負と自信がないと出来ないのであって、すぐ自分のせいにするのは人のせいに出来ないことが、自分のせいにする思考を生んでいるのかもしれない。人のせいでも自分のせいでもなく、言葉を紡ぐことが大切。
仕事終わり、渋谷の東急ハンズに行き、木材を購入。渋谷はもっと混んでいるのかと思ったけれど、想像以上に空いている。新聞や電車の車内ニュースなどで見た正月の渋谷風景とは全然違った。
年末、ユイさんの家に行った時に、コルビュジエのサマーハウスの本を見せてもらった。その部屋に遊びはないが、満足な生活空間はあるという表現が似合う内装が施されているように感じた。ぼくは、あまり全てを合理的に快適に作ることを好まないけれど、(コルビュジエの思考が合理的だとか言っているわけではなく)なんだかいまのぼくの生活と住居にはすごく必要な、重要な要素がそこにはある気がして、早速、昔作ったベッドを改良しようと思っているのである。ベッドの下はスペースがあり、スーツケースや段ボール箱などを入れていたが、全てを木製にする事で、新しい変化が生まれるのではと思ってしまった。
大学生の頃にみたサンタフェの2×4で建てた家というのがずっと頭に残っているのだけれど、2×4をきちんと理解することで、室内の様々なものを再度違った角度で見ることが出来るのではないかと思う。Enzo MariやMax Lambも2×4の木材を使って家具をデザインしているが、一つの希望なのだろう。
でも、同時にぼくは自分のものくらいぼくの身体で測ってものを作りたい。ベッドだって、本棚だって、棚だって、自分の身体とその場所、そして、それをどう使うかによって大きく変化するし、その全ての要素があるからこそものの意味が存在する。
ものがあるから、そこに何かが生まれるということは間違いないが、同時にそこに必要性があるからものが生まれるのである。
お正月に観た『フィールドオブドリームス』は、野球場を作ったからそこに一人の選手が現れ、試合が始まると言った内容だったので、場所やものがあるから何かが始まるんだなと思っていたけれど、
このケースだと、野球をしたい気持ちとか観たい気持ち、もう少し言うならば、どんな野球を観たいのか、どんなプレーを観たいのか好むのか、そんな気持ちから野球場が生まれているのかもしれない。
大学生のころ、あるカフェ店主に
「なんでこのお店を繁盛さてることが出来るのか?」
と尋ねたことがある。
「ここにカフェがあるからだよ」と彼が答えたことを今思い出した。
夜は、家で昨日の残りのおせちとお雑煮を食べる。おせちは美味しいし、自分でも上出来だと思う。
今年の抱負をそろそろ纏めたいけれど、まだゆっくり目を瞑るような時間を持てない。
これは、2020年から続くぼくの悩みで、ずっと心が荒れているので、目を瞑るとか深呼吸して何かを考えるとかそんな風なことが出来ないでいる。
自分ではっきりと選択した時間の中で生きること。
今の自分の生活は自分で選択したもので溢れているだろうか、自分で選んだものがまわりにあるだろうか。ただ、「自分の頭で選択するとは何か?」という疑問はおいておいて。
お昼は、しゃぶせんで年始からしゃぶしゃぶ。年末30日に来た時は、老夫婦や、話し上手はおじさん、40前くらいの品のいい姉妹など、良い雰囲気のお客さんが多かったけど、今日はなんだか正月を楽しんでいるふわふわとしたお客さんが多い印象だった。それはそれで賑やかでいい。
新春ランチというものがあり、霜降高原豚120gを注文。いつもの豚ロースよりもお肉の味わいを感じる。年をと越したのだなとなんとなく感じた。
あまり年を跨いでも、ぼくのもやっとした気持ちは拭われず、思考を整理することができない。先日、buikのカナさんも日記をずっと書いていたということを話していたけれど、ぼくも2020年は全然文章を書かなかった。これまで書けなかったのは、日記を書き始めて以来初めてかもしれない。
きちんと言葉を紡ぐことを再開しないことには自分の思考を整理できないんだと再認識し、書くこと、思考を自分の頭から出すことを今年はきちんとしたいと思っている。書かなかった理由は、なんだろうかと考えていると日々の中で書けないことをしていた、または書きたくないことをしていた、単純に書く癖がなくなった、言葉を紡ぐだけの言葉を得なくなった、言葉を紡ぎ出すだけの日々を過ごしていなかった
など、結局自分の甘さ、意識の低さという面にぶち当たる。だけれど、それは自分の思考の逃げ道が結局、自分が甘いだとか意識が低いという部分にしか逃げられないだけではないかとも思う。
全てを自分のせいにすることは簡単なのかもしれない。人のせいにするということはリスクがあり、人との対立が生まれる。人のせいにするということは相当な自分への自負と自信がないと出来ないのであって、すぐ自分のせいにするのは人のせいに出来ないことが、自分のせいにする思考を生んでいるのかもしれない。人のせいでも自分のせいでもなく、言葉を紡ぐことが大切。
仕事終わり、渋谷の東急ハンズに行き、木材を購入。渋谷はもっと混んでいるのかと思ったけれど、想像以上に空いている。新聞や電車の車内ニュースなどで見た正月の渋谷風景とは全然違った。
年末、ユイさんの家に行った時に、コルビュジエのサマーハウスの本を見せてもらった。その部屋に遊びはないが、満足な生活空間はあるという表現が似合う内装が施されているように感じた。ぼくは、あまり全てを合理的に快適に作ることを好まないけれど、(コルビュジエの思考が合理的だとか言っているわけではなく)なんだかいまのぼくの生活と住居にはすごく必要な、重要な要素がそこにはある気がして、早速、昔作ったベッドを改良しようと思っているのである。ベッドの下はスペースがあり、スーツケースや段ボール箱などを入れていたが、全てを木製にする事で、新しい変化が生まれるのではと思ってしまった。
大学生の頃にみたサンタフェの2×4で建てた家というのがずっと頭に残っているのだけれど、2×4をきちんと理解することで、室内の様々なものを再度違った角度で見ることが出来るのではないかと思う。Enzo MariやMax Lambも2×4の木材を使って家具をデザインしているが、一つの希望なのだろう。
でも、同時にぼくは自分のものくらいぼくの身体で測ってものを作りたい。ベッドだって、本棚だって、棚だって、自分の身体とその場所、そして、それをどう使うかによって大きく変化するし、その全ての要素があるからこそものの意味が存在する。
ものがあるから、そこに何かが生まれるということは間違いないが、同時にそこに必要性があるからものが生まれるのである。
お正月に観た『フィールドオブドリームス』は、野球場を作ったからそこに一人の選手が現れ、試合が始まると言った内容だったので、場所やものがあるから何かが始まるんだなと思っていたけれど、
このケースだと、野球をしたい気持ちとか観たい気持ち、もう少し言うならば、どんな野球を観たいのか、どんなプレーを観たいのか好むのか、そんな気持ちから野球場が生まれているのかもしれない。
大学生のころ、あるカフェ店主に
「なんでこのお店を繁盛さてることが出来るのか?」
と尋ねたことがある。
「ここにカフェがあるからだよ」と彼が答えたことを今思い出した。
夜は、家で昨日の残りのおせちとお雑煮を食べる。おせちは美味しいし、自分でも上出来だと思う。
今年の抱負をそろそろ纏めたいけれど、まだゆっくり目を瞑るような時間を持てない。
これは、2020年から続くぼくの悩みで、ずっと心が荒れているので、目を瞑るとか深呼吸して何かを考えるとかそんな風なことが出来ないでいる。
自分ではっきりと選択した時間の中で生きること。
今の自分の生活は自分で選択したもので溢れているだろうか、自分で選んだものがまわりにあるだろうか。ただ、「自分の頭で選択するとは何か?」という疑問はおいておいて。