2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2020.5.10

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2020.5.10

朝から散歩に出る。久しぶりに散歩に出た。気分がいいので、公園を一周する。気づけばもう暑い、夏のような天気である。立夏は5月5日なので、言われによると、それから夏の気配を感じるのだが、もう正直に言って息が苦しくなるくらい暑い。久しぶりに公園を一周するが、もう空気がGW前とは一変していることに気付く。割と毎日のようにここに来て、同じルートを歩いているので、日々の変化に敏感になれているとは思っていたけれど、気付けばこんなに空気の色も質感も変化しているとは思ってもみなかった。水分をたっぷり含んでいる、雨の気配も感じられる。実際、昨晩から朝一には雨が降っていたのだろう。それでも、雨上がりの空気とは違い、季節の変化による空気の重さと香りと、色の違いを感じずにはいられない。先週まで見かけていた家族は今はもう一組も姿を現さない。5月6日を境に、何か街のいろいろなものが変化したように感じる。ぼく自身も心身共に何か変化したように感じている。未来への不安が一気に押し寄せてきているようだ。毎日のように体調が悪いと思ってしまうが、それは精神的に参っているということのようで、今日も例外なく絶不調だ。何もする気が起きない。こういう時は本当に何もできないのである、日記すら書けそうにないが、なんとか言葉を残す。8時半からDSMG在宅勤務。今日は本当に調子が悪いので、画像編集をするが、13時で終える。明日、休みだけれど、半日作業をしよう。14時から山下達郎のサンデーソングブックを聴く。ぼくの1週間の唯一の癒しで、楽しみである。リスナーからのお手紙で、「悪阻がひどいがサンソンを聴いている時だけは悪阻がおさまる」とあったが、ぼくも同意見である。ぼくのこの精神的なアタックもサンソンを聴いているときは全くないのである。何か楽しいものをきく心の喜びのようなものは身体の全ての毒を取り除いてくれるのだと思う。15時過ぎ気付けば気絶したように寝ていた。気絶していたに違いない。怖くなるが、一度パニックになったので、なんとなくコントロール出来るのか、コントロールではないが、最低の状態に持っていかない事は出来ているように思う。ひとつ成長である。水を触り、歯を磨くとスッキリする事を手に入れているのだ、今後は常に歯ブラシを持ち歩くのもいいかもしれない。夕方、ラジオでブックデザイナーの方が、家にノイズを置かないようにしていると言っていた。目に入るものすべてを自分の好きなもの、自分の満足な形のものを目に入れるようにすればいいのかとなんとなく納得。自分の部屋にはまだまだノイズが存在する。動けないので、目一杯力を振り絞って散歩に出た。人がいるところへ行きたくなり、コンビニを見に行く。いろいろな人たちがいて、家着でコンビニに買い物に来ている人々を見ると、この状況が異常であるのかなと思うのと同時に、マンションのロビーで3世代で何を食べるかと悩んでいる日曜日の姿も見れたり、なんだか今までぼくが見ていた生活よりももう少し踏み込んだ生活がそこにはあるのかなという印象を受ける。家に籠る生活ではなく、人々は知人や友人に会い、散歩をしている。広場のブロックに腰掛け一定距離を保ち話している。なんだか、あの二人を見た時に、ぼくもあんな風に家の近くに理解のある友人を持ち、話せるといいなと思った。日が暮れて夕食の前の時間だったので、日曜日の夏の夕暮れの気配を感じる。住宅地の家々からはオレンジのリビングの光が漏れ、ノスタルジーさえ感じさせる。ぼくは、寂しいのかもしれない。安心できる場所が欲しい。夏の夜は楽しいということをふと思い出した。家に帰り、ホタルイカのパスタを食べる。ホタルイカとチェリートマト。さっぱりしていて美味しく出来た。湯船に浸かり、22時半に就寝。明日は気分の冴える日が来て欲しいと切に願っている。