6時過ぎ起床。パスカル『パンセ』を読み進める。日々の記録的な観点があり、人間らしさを感じる。思考だけを記録している。今のぼくには何か勉強になるとか、そういうのではないがとにかく偉大な天才の思考が手に取るようで面白い。7時半頃家を出て砧公園に散歩へ。今日は昨日とうって変わって快晴なのですごく気持ちがいい。鳥が鳴き、水溜りには木々が反射し映り込み、水面が風で波打つ、木漏れ日、桜が散っているそんな光景をなんだか素晴らしいと感じる。普段であれば時間がない中散歩して、風が気持ちいいとか、緑はいい香りがするとかそんなことにか感じていなかったけれど、不思議なまでに色々なことが目に入る。きっと日々に余白が生まれているからなのだろう。余白を残すことで自分らしさを取り戻せている気がする。きっと、ぼくは人に比べると一つ一つのことをするのに時間がかかるタイプなので、人がサクッと出来ることがサクッと出来ない。もちろん内容によるが。ただ、やりきることが重要なので、まずはやりきるために自分の頭に白紙を残しておくということはとても大切であると感じている。これまでもいろいろなことに挑戦しようとしてきたが、正直なところ満足に「これ以上出来ない!」というほどにやりきったというものはない。常に何か別のことをしながらやっているので、そういう訳にいかない。ぼくの頭は一つのことしか出来ない不器用で不便な作りになっているのだ。だから、こうやって日々少しでも時間が出来るといろいろなことを考えたり、余白を余白として残す時間が生まれる。日々時間が出来るというのは、例えば出勤時間や、カフェでお茶をする時間、外食に行く時間、買い物など普段当たり前のようにやっていることがいかに時間がかかる作業なのかというとことを感じているということであって、仕事をサボるとか、そういう話ではない。作業といったが、それらが作業と感じてしまうほどに今は割と家でことが足りる。人と会って話さないことだけがストレスである。もし家の中であれば100%安全であるというのであればぼくは毎日のように友人を呼んでお茶をしたり食事をしたりしたい。それだけあれば家で仕事をすることには問題ない。ぼくだって、他のいろんな人たちのように仕事をしているふりをしてサボって自分の時間に当てたり、本や映画を一日3本とか観て過ごすような生活が出来ればいいなと思うけれど、性格上することができないのだ。うまくやっている人たちはたくさんいるだろうな。8時半から仕事を始める。今日はwifiの調子がいいので、仕事をバリバリと進める。昼食は、アボカドとインゲンのパスタを食う。14時から東京FM山下達郎サンデーソングブックを聴く。17時からJ-WAVEの滝川クリステル「サウージサウダージ」を聴く。仕事を17時半に終わらせる。自分の気持ちの切り替えの意味を込めて始まりと終わりをしっかり決めておかないとなあなあになってしまうので、人に何を言われようがそこだけはきっちりと自分のルールを守る。KENNEDY magazineのクリスから頼まれていたQuarantine Diaryを纏めて送る。夜は、映画を観ようと思ったが、wifiの速度制限がかかってしまう。速度制限とは何か、ぼくにはさっぱり理解できない。海外にいるときにはなかった。速度制限を気にしながら生きるのは割と辛いということを最近つくづく感じている。夜は、昨日作った長ネギのポタージュを食う。ブリコラージュのパンがなくなった。20時から湯船に浸かり、野村訓市のラジオを聴く。なんだか日本にいるのが嫌になる。旅の話題が出て来るからではなく、人の感覚や、うまく言えないが視野が狭いのにそこで自分は知っているというふりをすることなどに嫌気が差す。言葉だけは美しいが行動が伴っていなかったり、言い訳がすごく多かったり、それで形成された自分の人生を美化したり、学生の頃や過去の自分を自慢したり、なんだか未来に進んでいるとは思えない。ぼくたちは家でも未来へ進んでいるのだ。価値観も倫理観も少しずつ変化しながら成長しなければならないはずである。特にこんな時代だからそこ、自分の信じているものさえも疑うことが必要だと思う。とにかく人の文句を言ったり、考えるだけの時間も無駄である。ぼくは余白が必要なのである、常に愚痴や俗ものはぼくたちの余白につけ込んでくるのである。そうやって人は愚痴を言いながら死んでいくのである。妬み。パスカルは、「人間は屋根屋だろうが、なんだろうが、あらゆる職業に自然と向いている。向かないのは部屋の中にじっとしていることだけだ。」と書いている。その後には、世の中の戦争や争う、情念や、大胆でしばしよこしまな企てなど、人の不幸というものは、部屋の中に静かに休んでいられないことにあると言っていた。ぼくたち人類はこれを機に部屋でじっとすることを覚え、何か部屋の中で出来る新しい楽しみを学ぶべきである。同時にパスカルの時代と今とで大きく変わったことは、ぼくを含めた多くの労働者たちが休息の心地よさを感じられているということである。部屋にはspotifyがあり、netflixがあり、amzonが存在する。それらはぼくたちの思考や余白の搾取であるとも思えてならないが、それはパスカルの時代と大きく違う。パスカルがnetflixで映画を鑑賞したり、spotifyで知人たちとプレイリストを共有していたら部屋に籠ることなんと言っただろうか。パスカルは、人は一度楽しいことを覚えてしまうとその前の生活に戻ることが出来ないと言った。全人類が今感じている変化と、前の生活に戻ることの難しさとどう対峙していくのかが楽しみである。まだ楽しみだというには不謹慎もほどがある。他人事ではなく、自分にだって身の危険がすぐ隣にあることは間違い無いのだから。ホンマタカシさんの作品は政治・社会的要素を含んでいると同時に、それらは社会での歴史的事件を待っているようにも思えてならない。ぼくの一番好きな写真集にポールグラハム「Paris 11-15th November」がある。この作品は、パリでISによるテロが起きた時に家に籠ることを余儀なくされ、家の中で撮影したものである。テロがあったことを感じさせない描写方法が素晴らしい。繊細な変化、愛と不安に満ち溢れている。ぼく自身パリのテロを経験したからこそ好きな作品なのかもしれないが、ホンマさんの作品を見ると、なぜか彼は平和を求めているのではなく、作品を作ることに情熱が偏っているように思えてならない。かなり好きな作家の一人なので、キノコ以降の作品はぼくはあまり好きとは言えないし、最近は怒りさえ覚えるほどである。あくまでぼくがそう感じるだけであって、正直ホンマさん本人はそうは思っていないだろう。とにかく政治・社会的主題をテーマにすることに今ぼくは違和感しか感じないのである。寝る前に布団に入り、榮久庵憲司『道具考』を読み始める。23時には寝ていた。