2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2020.3.6

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2020.3.6

夢心地な日。寝たり起きたり、食べたり、また寝たり。写真を選ぶ。すこしずつ凝り固まっていた頭が柔らかくなってきた印象。どれだけシリーズを撮ったのだろうと思うが、ほとんど纏めていない。フィジーの記録も、パリに住んでいた時に撮りためていた建物を侵食する植物のシリーズも、パリのrue Saint Honoreのシリーズも、通りのシリーズも、一部でもいいから本の形にしておくべきだと思う。数人からフィジーの生活を纏めるべきだよと言われていたのだが、それが未だに纏められない。「フィジーの印象」そんなタイトルを付けたい。写真だけでは弱いし、記録とし撮りためたイメージの羅列だけがどのくらいの強度をもっているのかも自信が持てないし、日記もあまり書いていない。書いてはいたが、英語の勉強と捉えて英語でさっぱりと書いている。全く英語もできない時期に英語を頑張っている自分の努力を評価したいが、日記の本質はそこではないのではないかとも思ってしまう。いま再度、フィジーの生活を纏めなおすとすると、フィジーのリサーチを再度し直すべきなのだろう。フィジーに行くきっかけになったマルセル・モース『贈与論』もフィジーの生活を経験したあとは一度も読んでいない。自分が体験したことで何か違う感覚を持つことは多々あるし、それをフィジーに関して言えば何も感じていないのだ。
あのフィジーの香りとか、歩く人々の踵の削れ方とか、Tomのココナッツとか、50セントだったカットされたパイナップルも、レストランのテーブルの上にあった青いチリも、ハリボテの家も、カヴァも、ミニバスの使い方も、その断片の全てが自分が伝えたいことだし、それこそがフィジーの相互扶助の概念の一部なのだ。と考えると、フィジーにまた行く時には自分の経験の延長線上にあることをしたい。5月にヨーロッパに行く時に、何か持っていけるように、準備するべきなんだと自分を戒める。COVID-19が蔓延しているが本当にヨーロッパに行けるだろうか。ワーキングホリデーを取っておこうか。今年が最後である。夜は、サクッとパンとボイルドエッグとアンチョビを食う。ロストイントランスレーションを観て就寝。