2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2012.3.5

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2012.3.5

きっとモノも名誉もお金も持たなくたって、人間の想像力と様々な視点は世界を様々な色に変えることが出来て、生活を豊かに出来るのである。これはまだ確信ではないがきっとそうだという妙な感覚がある。名誉やお金すべては、他者との関係の上に成り立つモノであるからだ。
そのためには想像を追求しなきゃいけない。梶井基次郎のように本屋の店先のレモンを爆弾だと疑わなければならない。または、幅の利いた生活を経験したらいい。アジア無賃バックパックからマカオでギャンブルな毎日。そういう経験を促すモノやシステム、経験したいなと思わせることがしたい。
たまに、無地のキャンバスにどれだけの絵が描けるかが「豊かさ」なのかなとも考える。四畳半に住んでどれだけ世界を傍観出来るか。二畳の茶室でどれだけ宇宙を感じ取れるか。それに尽きる。ぼく個人としてしたいことはそういうことかもしれない。
きっと、食糧確保出来る方法知ってて、最低限の生活方法知ってて、どうやったらお金を手に入れれるか知っていたら怖くないのだろう。坂口恭平がゼロから始める~で言っていることは、ホームレスを増やしたい訳でも、自給自足しろという訳でもなくて、またアンチキャピタリズムでもない。まさに自分のサイズを知りなさいということなんだろうな。
現在の世界って、自分のキャパをオーバーしてるんだよね。テレビが出来た時代、見たこともない世界をあたかも見たかのようになった。その時は視覚的な感覚であった。今度は、インターネットによって視覚的感覚にプラスαで思想とか精神的な部分までもを言葉によって知ったようになることが出来る。岡本太郎が万博の時に言ってる「進歩と調和っていって人間が進歩したようにもてはやされてるが、人間はちっとも進歩していない。文明のみが進歩しているだけだ」(言葉はあやふやです、意味は合ってます。)という言葉は、今一度声を大にする必要がある。常に自分に言い聞かせることが必要である。
ぼくが、なぜ出町柳のgreenというカフェが好きかというと、やってる人がいなくてもどんな人か想いを巡らすことが出来るからだ。DOMMUNEの宇川が雑誌で書いていたんだけれど、ウォーホールの撮影したドキュメンタリーフィルムは、本人は全く映ってこないのにウォーホールがどんな人か想像出来る。宇川のDOMMUNEだって、宇川本人は映らないのに宇川がどういう人間か想いを巡らすことが出来る。「想いを巡らすこと」ってかなり重要で、ぼくが好きだなと思っていることは基本的に想いを巡らせることが出来るのだ。世の中で雑誌の水着グラビアが廃れず受ける理由ってきっとこれなのだ。ぼくがサニーデイサービスを好きな理由もこれなのである。「雰囲気ある」とはこのことである。



《A table! Comestible Paysage Labo》
問題発生の為、一時中断します。再開をしばしお待ちください。

《酵素Labo》
冬期の為、実験中止。再開をしばしお待ちください。