最近ハマっていた音楽の聴き方はヤマツカアイと同じだったということが判明。ジャンル分けするならフィールドミュージックというらしい。おもしろい。
過去の人間たちは民俗行事によってトランス状態を見ていたのではないかという話を先輩がしていて考えてみた。現代社会では、民俗行事がなくなり自然との出会いが減った。リズムがなくなった。
LSDは経験を一気に見せてくれる。要は、天然のLSDを創り上げる、それがぼくのいうパラレルワールドを創り上げるということ。もし、LSDが法律で禁止されているのであれば法律に引っかからないLSDを創造すればいい。それは、映画や本によって経験を促すことかもしれないし、芸術作品と言われるものでガツンと頭を殴られたような感覚にするものかもしれない。やっぱりぼくは民俗行事推進。お祭り男。結局、LSDを考えることは人間という小宇宙を旅することで、結果民俗学に繋がって、考現学や生活学、そして文化人類学も勉強することになるし、柳田国男も今和次郎も川添登も梅棹忠夫も、今西錦司にも哲学の道でお馴染み西田幾多郎にもダーウィンにも繋がり、ダーウィンを否定するルドルフシェーンハイマーももっともっといけば孔子まで。ちなみにぼくが小学校の時の卒業文集に書いた将来の夢は考古学者でした。10年前に考えていた夢に結構近いのではないか。そう考えると小学校時代の教育はすごく影響与えているな。家族や親戚の影響も強い。
ぐわーーーーーっと世界は広がる。永遠に終わらない、この文化人類学。どの視点からそのモノを見るかという所も非常におもしろいのである。そして、それを通じて誰にトランス状態を伝えたいのか。ぼくにとっては、添加物の視点からなのか、もっと大きくいうと放射能含め人工物の視点から文化人類学を見てみることなのか。
もし、日本に八百万の神がいるのならばトランス状態にすぐなれるはずだ。米一粒食べただけでトランス状態になりたい。そんな米作ろうとしているヒトはいるのだろうか。一粒で深みにはまる。そんな米があるのなら食べてみたい。余談ですが、米って農薬全く使わずに作ろうとすると非常に大変でかなり厳しいみたいです。
明日、先輩の友人で多摩美の中沢新一ゼミの元学生であったヒトに会う。非常に楽しみ。彼は天狗らしい、山伏修行をしたらしい。最近いろんなヒトと話をすることがよくあるのだけれどみんな内田樹論者。なんでだろうか。すごく良い意味で。
話は変わって、パソコン使ってもアイホーン使ってもカメラ使っても車使っても自分の身体使っても結局問題なのはエネルギーです。エネルギーが永久的というものはない。強いて言うなら植物たちなのか。アイホーンやパソコンやカメラはエンジンとなる電気が必要で車はまだ大半は化石燃料が必要で、人間も食物を食べなきゃいけない。車でもなんでもそうだけれど、エネルギーを使うのにも良いエンジンが備わっている方がいい。人間にもいい肝臓や腎臓がある方が良いのです。それは、食物によって作られる。野菜にも善し悪しがあって混じりっけのないもの(人工物が入っていないもの)がいいのです。肝臓や腎臓を形成している分子も常に分解と再構成を繰り返しダイナミズムの中に存在する。動的平衡、そう考えると世の中ぐにゃぐにゃに見える。これぞまさにトランス状態。
生活とは、生を活かすものであり生を維持し育むための活動でありまた生きる活力にならなければならない。食と顔の実験6日目。
朝:素うどん
昼:ゴルゴンゾーラの玄米リゾット
夜:不明(居酒屋)


